上畑村(読み)かみはたむら

日本歴史地名大系 「上畑村」の解説

上畑村
かみはたむら

[現在地名]八千穂村大字畑 上畑・清水町・千ヶ日向・宮前

千曲川と大石川の合流点から北、千曲川に沿う狭長な沖積地と、その西方の北八ヶ岳裾野末端の起伏の多い台地よりなる。千曲川に沿う低地には、佐久甲州往還(現国道一四一号)が南北に通じ、村の南端から大石川に沿って、西方、八郡村枝郷大石を経て、北八ヶ岳の大石峠を越えて、諏訪郡せりさわ(現茅野市)に通じる八郡山新道(現主要地方道佐久町―茅野線)がある。東は千曲川によって、樋口村及び下海瀬しもかいせ(現小海町)と相対し、西は中畑村枝郷佐口と八郡村に境し、南は大石川によって本間村馬越まごえ(現小海町)に相対し、北は中畑村に接する。

建武二年(一三三五)一〇月二一日、山城国大徳寺領・信濃国佐久郡伴野庄の雑掌水沼実真が、同庄の年貢員数を大徳寺に注進した状に「畑物村百貫文畑在上百十・下百卅」とある(「伴野庄年貢注文案」大徳寺文書)。文明八年(一四七六)諏訪社上社が明年の御射山みさやま祭頭役を佐久郡鷹野郷にあてたが、「上増、伴野鷹野郷、畑物蔵人頭貞幸、御符礼三貫三百」とあるから、伴野庄鷹野郷には代官として、畑物貞幸なる人物がいたものと思われるが、畑物氏は畑物村を本貫地とする土豪であったのだろう(諏訪御符礼之古書)。天正六年(一五七八)上諏訪大宮同前宮造宮帳(諏訪大社上社文書)にも、鷹野・上村・畑物三ヵ村が瑞籬二間を負担している。しかし天正一四年依田康国領の信州佐久郡之内貫之御帳には、畑物村の名が消えて、下畑分一五〇貫、大窪分一一貫、中畑村七〇貫、上畑村七〇貫、とあるから、この間に畑物村が上畑・中畑・下畑・大窪の四ヵ村に分れたものと考えられる。


上畑村
じようばたむら

[現在地名]岡垣町上畑

海老津えびつ村の南西、つたヶ岳・御鹿倉おかくら山ともよばれたじよう山の北東麓に位置する。北は高倉たかくら村、南東は宗像郡武丸たけまる(現宗像市)、南は同郡陵厳寺りようげんじ(現同上)など。古くははた村といい、城畑村とも記した(続風土記)矢矧やはぎ川の最上流域にあたり、集落は本村のほかに笠松・辰谷たつがたに灰谷はいがだに門司口もじぐちがある(地理全誌)。唐津街道が村内を縦断し、城山東方の城山じようやま峠を越えて武丸村に向かった。城山には宗像氏の居城である岳山だけやま(赤間山城ともいう)があった。慶長石高帳には畑村とあり、慶長七年(一六〇二)の検地高一四五石余(うち大豆三一石余)


上畑村
かみはたむら

[現在地名]豊北町大字北宇賀 上畑

宇賀うか村内の北東、狗留孫くるそん山系より北流する八城やしろ川に沿った盆地に集落があり、狗留孫山(御岳)への登山口の一つでもある。北方の八城川が太田おおた川に流入する付近が下畑しもはた村とよばれる。

「大護社録・天神託宣秘書」には「嶽の畑上下」とあり、また八代やしろ村ともよばれた。村内には源内・土井・井領・六方一儀・井上殿・牛王など中世的な地名があり、焼畑農法を行ったと思われる夏焼などもある。


上畑村
うわはたむら

[現在地名]緒方町上畑 上畑・土岩つちいわ

仲野なかの村の南にあり、奥岳おくだけ川とその支流九折つづら川流域にある。正保郷帳に村名がみえ、田高二石余・畑高三〇石余、奥嶽おくだけ郷に属し、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高一二五石余。安永七年(一七七八)には奥岳組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)小原おはる村に居屋敷をもつ奥岳組大庄屋工藤氏は江戸時代前期まで当村に居住していた。


上畑村
うえはたむら

[現在地名]君津市植畑うえはた

西粟倉にしあわぐら村の南、小糸こいと川上流左岸に位置する。南は西日笠にしひかさ村、西は上総丘陵高宕たかご山の稜線を越え天羽あまは田倉たぐら(現富津市)。植畑とも記した(旧高旧領取調帳)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二一四石。寛永一八年(一六四一)から市宿いちじゆく村と同じく旗本曾根領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数六四。弘化四年(一八四七)の五分一炭焼出願(鈴木家文書)によれば、村内の円通えんつう寺が持山で二五〇俵ほど年貢の足しに炭の焼出をしたい旨願出ている。


上畑村
うえのはたむら

[現在地名]甘木市上畑

長田ながた村の東、かつら川の右岸に位置する。下座げざ郡に属し、東は鵜木うのき村、南東は桂川を挟んでなか村。「うえのはたけ」ともいい、上ノ畑(田圃志・村誌ひなしろ)とも書いた。江戸時代を通じて福岡藩領。小早川時代の指出前之帳では鵜木村に含まれて高付されていた。慶長七年(一六〇二)の検地高九七石余、うち大豆二八石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には同じく高九七石余、反別は七町二反余、家数七・寺二、人数二七(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も九七石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数一三・人数九二、馬七(別本「続風土記附録」)。庄屋は代々豊原家が勤めていたが、江戸後期には松岡一平(天保一五年)、長野新蔵(安政六年)などが入庄屋を勤めている(村誌ひなしろ)


上畑村
うえはたむら

[現在地名]近江八幡市上畑町

馬淵まぶち村の南にあり、村の南および西を日野川が蛇行しながら北西流し、対岸は弓削ゆげ村・信濃しなの(現蒲生郡竜王町)、東は倉橋部くらはしべ村。上畠村・上畑ヶ村とも記し、ウエハタケともいった。戦国期のものと推定される得珍保海草等馬足子交名(今堀日吉神社文書)に「うゑはたけ」とあり、当地の四郎二郎・刑部四郎・三郎二郎などが得珍とくちん(現八日市市)の足子商人として商活動に従事。天正一九年(一五九一)豊臣秀吉は伊勢津城主富田知信に上畠村高二二五石余を与えている(同年四月二六日「知行目録」富田文書)。元和元年(一六一五)一部が丹後峯山藩領、同六年残りが旗本有馬領となる。正保郷帳では高二三四石余、峯山藩領一九三石余・有馬領四〇石余。


上畑村
うえのはたむら

[現在地名]安心院町矢畑やはた

だい村の南、深見ふかみ川中流左岸にある。南は矢上やがみ村、東は下内河野しもうちがわの村。近世の領主の変遷は妻垣つまがけ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳には上ノ畠村とあり、高八七石余、人数一二、百姓三(うち庄屋一)・名子一・牢人一、牛一。同改帳にみえる中原村は地内の字中原なかはるにあたるとみられ、高四五石余、人数七、うち百姓二(うち庄屋一)・名子一、牛一。その後中原村を含む当村は郷村帳類では大村の枝郷として扱われ、同村に含まれて高付されたが(享保二年中津藩郷村高帳など)、実質的には一村であった。


上畑村
かんばたむら

[現在地名]津名町木曾上畑きそかみばた

檜原下きそのはらしも村の南にあり、南に高倉たかくら山がそびえる。南西は峠を越し鮎原上あいはらかみ(現五色町)に入る。南東は宮野原みやのはら(現洲本市)。寛永四年(一六二七)の塩田之内上畑村検地帳(津名町史)によれば、高二一二石余(田一九七石余・畑一四石余)・反別一五町七反余(田一三町四反余・畑二町三反余)正保国絵図では高一五六石余。


上畑村
うえはたむら

[現在地名]幡豆町東幡豆ひがしはず

愛宕あたご山から流れる水が、上畑の上下二つの池で溜められ、上畑川となり平地へ出ると上畑の集落がある。地名の示すように、上が畑、下が田である。集落の上に上畑神社がある。松平対馬守領だった嘉永六年(一八五三)の丑郷帳(牧野健吉氏蔵)の納合高は、米が九三石余で村高の三六パーセント、塩が五石三斗二升、銭一・五貫ほどである。村役として、溜池普請というこの地特有のものもみられる。明治二年(一八六九)の村方明細帳(愛知県幡豆町誌)によると、百姓家数は六五軒、うち本百姓四五・水呑二〇である。


上畑村
かみはたむら

[現在地名]飯能市上畑

下畑村の西、直竹なおたけ川と成木なりき川の合流点に位置する。加治かじ領に属した(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、高は田方一一石余・畑方九一石余、幕府領。寛文八年(一六六八)の検地帳(「上畑村誌料」飯能市蔵)によると反別は田二町四反余・畑屋敷一三町余。ほかに百姓持林四町一反余があった(宝暦五年「上畑村持林地改帳」同誌料)。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。化政期には三卿の一の一橋領で家数二四(風土記稿)


上畑村
かみはたむら

[現在地名]竹田市上畑

玉来たまらい川北岸の台地上にあり、東は志土知しとち村、北東は炭竈すみかまど村。正保・元禄・天保の各郷帳には村名がみえない。弘化物成帳では阿鹿野組のうち、村位は下、免六ツ六分七厘、田四〇石余(四町二反余)・畑六五石余(一三町一反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はほとんどなく、開畑六斗余(一町三反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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