下津井湊(読み)しもついみなと

日本歴史地名大系 「下津井湊」の解説

下津井湊
しもついみなと

前方の櫃石ひついし(現香川県坂出市)によって風波が遮られ、天然の良港をなす。古くより瀬戸内航路の要港であった。近世には金毘羅往来の終点・渡海地として、瀬戸内水運の中継地として賑った。正保四年(一六四七)の道筋并灘道船路帳(池田家文庫)に「瀬戸東ノ口広サ五町、此湊西北風船懸りよし、西瀬戸口広サ一二町、地方山鼻ニはへ有、干塩ニ水下二尺計リ、北より八間」とある。「船路記」(岡山市立図書館蔵)には古下津井こしもつい湊と下津井湊の二湊が記される。前者は指渡し四町、満潮時の深さ三尋、一〇〇石以上の船二〇艘余の船がかりができ、西之鼻にしのはなに灯籠堂、しろ(下津井城跡)に遠見番所がある。後者は湊口の指渡し二町半、口より奥へ一町(うち三〇間は干潟)、満潮時の深さ三尋から五尋、西・北風のとき三〇〇艘の船がかりができた。「備陽国誌」には灯籠堂(延宝年間に設置、明治四年廃止)が海上往来の標的になっていることが記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「下津井湊」の意味・わかりやすい解説

下津井湊【しもついみなと】

備前国児島郡瀬戸内海に面する港津。前近代までの下津井湊は下津井浦とその東に続く吹上(ふきあげ)浦とが一体となって形成しており,現岡山県倉敷市下津井および下津井吹上にあたる。前方の櫃石(ひついし)島によって風波が遮られる天然の良港。1183年京都を脱出した平氏一族,安徳天皇らは下津井から海路をとり,鎮西(ちんぜい)に至っている。1336年には西国から京都を目指した足利尊氏と航路をとった軍勢が吹上で合流した。1445年(文安2年)の《兵庫北関入船納帳》によると穀物や塩,干物などを積んだ下津井船が1年に32回も兵庫北関(兵庫津)に入津しており,これは牛窓(うしまど)津の船に次ぐ。戦国期には毛利氏や宇喜多氏の兵船の供給地ともなった。江戸時代に入ると,1606年池田長政が下津井に城を築いて居城としたことにより城下町としても発展,1639年の廃城後も岡山藩公定の在町として,中継交易の湊として繁栄を持続。1660年岡山藩は在番所を設け,海上の取締りと参勤交代の諸大名や外国使節(主として朝鮮通信使)の接待に当たった。さらに江戸中期ころから讃岐金毘羅(こんぴら)大権現(金刀比羅宮)への参詣が盛んとなり,その渡海地としても賑わった。1691年には下津井村の人数1521,下津井町の人数130で,町には60人の商人がいた。19世紀の初め(文化年間)には村方の家数650・人数2683,町方の家数47・人数211に増加しており,吹上村も家数219・人数973を数えた。このころ下津井湊には問屋24軒の株があり,農産物のほか綿・茶・タバコなどの商品作物,ニシン数の子・ワカメ・油粕などの海産物,ろうそく・紙・古着などの日用品等々多岐にわたる商品を取り扱っている。海産物は北前船によってもたらされた。近代に入っても繁栄は続いたが,1890年の山陽鉄道の開通による陸運の発達や汽船の出現によって中継基地としての役割は低下,しだいに漁港へと変貌していった。

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