牛窓津(読み)うしまどのつ

日本歴史地名大系 「牛窓津」の解説

牛窓津
うしまどのつ

瀬戸内海のほぼ中央に位置する天然の良港で、神功皇后にまつわる地名由来説話からも推測されるように古くから開けたとみられ、瀬戸内交通の要衝であった。

「山槐記」治承三年(一一七九)六月二二日条によると、同月一一日安芸厳島神社参詣途次の平清盛乗船の船が「虫上」(虫明)を経て「牛間戸」に寄港、「件所有入道宿屋」とある。康応元年(一三八九)三月足利義満の厳島詣に随行した今川了俊は、同月二四日当地に着し、「今夜はうしまどに御とゞまりなり。赤松右馬助まいりてあるじつかうまつるなるべし、夜になりてまたかみなりあられふり大雨風になる程に、舟のいかりをとりて此泊のすこしひむがしのわきに舟をなをしき、其ほどのさはぎのゝしる船こどもの声々、神なりさはぐにもをとらず、まうちぎみばかりは寺の侍しにうつらせ給ひけり」と記す。「老松堂日本行録」によれば、朝鮮使節が応永二七年(一四二〇)四月および七月に宿泊しており、当地を「海賊聚居」の地といっている。

永享一一年(一四三九)から九年間の備後国大田庄年貢引付(高野山文書)によると、嘉吉元年(一四四一)一二月、備後国尾道おのみち(現広島県尾道市)で当地の石原道幸船に大田おおた(現広島県世羅郡)の年貢米が積まれ、紀州高野山に送られた。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によれば、米・豆・大豆・小豆・大麦・小麦・蕎麦・かち栗・搗栗・苧・山崎胡麻・榑・檜材木・海老・イカ・塩鯛・干鯛・鰯・アラメや各地産の塩を積んだ牛窓からの船が兵庫北関へ入津している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「牛窓津」の意味・わかりやすい解説

牛窓津【うしまどのつ】

岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)にある古代以来の港津。瀬戸内海のほぼ中央に位置する天然の良港で,牛窓瀬戸(唐琴瀬戸)と呼ばれる狭い海峡を挟んで前島,青島,黄島,黒島などが浮かぶ。《万葉集》に詠歌があり,神功(じんぐう)皇后にまつわる地名由来説話が《備前国風土記》(逸文)に記されるように古くから開け,以後一貫して瀬戸内交通の要衝であった。1179年安芸厳島(いつくしま)神社参詣途次の平清盛乗船の船が寄港しており,1389年足利義満が同社に詣でたときも停泊している。1420年には朝鮮通信使が2度にわたって宿泊,〈海賊聚居〉の地と評した(《老松堂日本行録》)。1445年(文安2年)の《兵庫北関入船納帳》によると,穀物,海産物,塩,材木などを積んだ牛窓船が1年に133回兵庫北関(兵庫津)に入津しており,備前・備中で最も多い。また室町幕府の遣明船に牛窓船が随行するなど海外へも進出している。江戸時代に西廻航路が開かれ,商品流通が拡大すると,廻船の寄港地として下津井(しもつい)湊とともに岡山藩の領内産物の積出港ならびに他国産物の移入港として発展,1694年に一文字波止が築造されて湊の機能が一段と強化された。また牛窓は岡山藩の海の固めおよび幕府役人や諸大名の瀬戸内通行接待港としての性格をあわせもち,江戸時代初めから種々の施設が設けられた。なかでも朝鮮通信使の通行に際しての接待役は重要で,1607年から1811年までの間に計12回迎え入れている。主要接待所には本蓮寺および御茶屋があてられた。海上交通の発展とともに当地の商業は問屋を中心に盛んになり,町場も形成されていった。扱荷は九州からの材木,北前船によって運ばれる肥料などがおもなものであり,銭屋・両替屋・繰綿問屋・他国米商などが藩の許可を得て湊周辺に軒を連ねていた。また備前焼を商う店も多かった。享保期(1716年−1736年)には牛窓津がある牛窓村は家数883・人数4241を数え,小猟船から19端帆までの船165艘があった。近代に入っても繁栄は続いたが,19世紀末頃からの陸運の発達や汽船の出現によってしだいに衰退した。

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