下町村(読み)しもまちむら

日本歴史地名大系 「下町村」の解説

下町村
しもまちむら

[現在地名]徳島市下町

上八万かみはちまん村の西にあり、西は下佐那河内しもさなごうち(現佐那河内村)。「三好家成立記」によれば、天正五年(一五七七)伊沢越前守が矢野駿河守らにより討たれたのち、一宮いちのみや城の一宮長門守らは矢野氏らを攻撃するため九月八日の早朝人数を揃え、「自下町八幡富田ヲ打廻リ、助任ヘ渡リ高崎表ニ打出」たという。天正年中は西の一宮村の枝村であったと伝える(郡村誌)。寛文四年(一六六四)までは以西いさい郡に属した。慶長二年(一五九七)の分限帳に下町とみえ、三九石が横坂孫兵衛、四〇石が江口新蔵、四六石が河村喜八郎、五〇石が青山勝蔵の各知行分。正保国絵図では高一七六石余。寛文四年の郷村高辻帳では田方一五五石余・畠方二〇石余、旱損、芝山と注記される。


下町村
しもまちむら

[現在地名]大津町下町

白川右岸に位置し、集落はまち村の西に隣接する。村の東、町村境の堰から白川の水を取水する津久礼つくれ井手や瀬田下せたした井手懸りの諸水路が灌漑し、水田地帯となっている。慶長一三年(一六〇八)検地帳によると、戸数二五・人数八五、牛馬三七、田三一町四反五畝余・畠四一町五反三畝余(屋敷三町を含む)、分米六四〇石一斗余とある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳では下町組に属し、戸数一四・家数九六、人数一〇九(うち庄屋一・百姓一二)、牛馬四一、高四四〇石一斗余。下町出分の戸数六・家数三三、人数四五、牛馬一七、高二〇〇石。


下町村
しもまちむら

[現在地名]大原町下町

吉野よしの川右岸にあり、対岸東は上庄かみしよう村。因幡往来は北東の辻堂つじどう村に経路を変える承応三年(一六五四)以前は当村を通っていた(岡山県史料)。「東作誌」によれば、宇喜多氏時代に讃甘さのも庄内の大村であった上庄村から分村した。また同書に庄屋としてみえる新免氏の祖が、竹山たけやま城に居城した頃当地は吉野郡の都府として城下町を形成していたと伝え、村名はそれに由来するという。

正保郷帳に村名がみえ、田二四九石余・畑七二石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高八七石余・開高四石余、村位は上。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は尾崎おさき村と同様。元禄一一年古町ふるまち村に設置された代官所が享保一八年(一七三三)当地に移設された。


下町村
しもまちむら

[現在地名]山崎町下町

揖保いぼ川の支流伊沢いさわ川の下流域に位置し、南東は生谷いぎだに村・横須よこす村。当地およびその周辺は中世の長水ちようずい城の大手にあたり、町屋があったことから町とよばれたといわれ、隣村に中町・上町がある。慶長八年(一六〇三)姫路藩主池田輝政は「下町村」のうち二六五石余など計一千石を家臣の黒田四郎兵衛に与えた(「黒田定清家譜」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図に「下町」とみえる。領主の変遷は山崎村と同じ。正保郷帳に下町村とみえ、田方一八〇石余・畠方一六二石余。下村氏手控帳を寛保三年(一七四三)に写した西村氏手控帳(西村家文書)によると、寛文(一六六一―七三)頃は四ツ成高二九七石余、田一〇町六反余・畑一〇町七反余、家数二七・人数一七八、馬一四・牛一五。


下町村
したまちむら

[現在地名]吉川町下町

吉川の西にあり、対岸は小苗代おなわしろ村、南は深沢ふかさわ村、西は原之町はらのまち村に接する。「頸城郡誌稿」によると、原之町村に伝えられる古書に、当村は古くは宮崎宿と称し、永禄二年(一五五九)の大洪水ののち下町・原之町の村名を立てたとある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外拾三方分下町村 中」とみえ、本納一五〇石四斗六升九合・縄高四二六石四斗七升七合、家一九軒・六八人とある。正保国絵図に高一七五石余とみえる。天和三年郷帳によれば高三〇一石六斗余。元禄八年(一六九五)の人別改帳(大滝せい氏蔵)によると、高三〇一石六斗余のうち本村分が二七四石一斗余、堰免分が二七石五斗余で、家数一八(うち水呑二)、男四八・女三八・社人一・善門一・童男二三・童女二七とある。


下町村
しもまちむら

[現在地名]西会津町奥川おくがわ豊島とよしま

滝坂たきざか村の北方、阿賀川支流奥川の下流域に位置する。耶麻郡吉田組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に下町とみえ、高一二三石余。寛文五年(一六六五)の「吉田組風土記」では高一一〇石余(うち新田三石余)、免三ツ九毛、反別は田方五町余・畑方八町二反余、家数一六(竈数一九)、男五二・女四六、馬一一(うち五調六)。紙漉二がおり、綿役銀一四匁・役漆木一千八五一本などを負担していた。貞享五年(一六八八)の村鑑(矢部家文書)では高一四五石余、家数二三、男七一・女六五、馬一二。


下町村
しもまちむら

[現在地名]西尾市下町

市の北に位置する碧海へきかい台地上の村。西尾城北西にあたる。西から谷底平野が入込み、複雑な地形となる。村名の由来には、「西之町とは、上町下町辺の名称にして西条の西部に位せるより、かく名付けし」(西尾故老伝)の説があり、「米津清右衛門検地高」には「下西ノ町」と記す。

近世の支配は西尾藩領。元文元年(一七三六)の村高四三三石五斗余、新畑九石七斗余、銭成畑二五石三斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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