日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国暦」の意味・わかりやすい解説
中国暦
ちゅうごくれき
中国で行われた暦法。中国の暦法はすべて太陰太陽暦法であるが、その上古の暦法の詳細は不明である。『漢書(かんじょ)』律暦志(りつれきし)には黄帝(こうてい)、顓頊(せんぎょく)、夏(か)、殷(いん)、周、魯(ろ)の六暦の名が記されているが、『黄帝暦』以来、名が知られている暦法は100有余に及ぶ。しかし、なかにはその名ばかりで行われなかったものが多い。史籍に暦法が記述されるようになった紀元前104年(前漢、太初1)施行の『三統暦』以降施行された暦法は40有余に達する。
中国の太陰太陽暦法のおもな共通点をあげると、季節を調節するために二十四節気を設けたことである。これは一太陽年を24等分した約15.22日ごとの時点に名称を付し、各月に二つずつ配して、前者を節、後者を中とした。そうすると節から節まで、あるいは中から中までの日数は30.44日となり、一暦月より長くなり、中気を含まない月がほぼ32または33か月に一度現れる。この月を閏(うるう)月とする。これは太陽の運行が一様であるとして計算するもので、平気法という。これに対し、黄道を24等分し、冬至から15度ごとに平気法と同様の名称を付し、これを定気の二十四節気とする。そうすると太陽の運行は冬に速く、夏には遅いので、これら各点の間の運行時間は冬は短く、夏は長くなり、中から中までの時間は31.46日から29.44日までの間を変動し、したがって一暦月に二つの中気を含むこともあり、一つも含まないこともある。中気を含まない月を閏月とするが、それでも不十分なため、清(しん)の嘉慶年間(1796~1820)に冬至は11月、春分は2月、夏至は5月、秋分は8月と定め、閏月はこの規定に反しない範囲で置くことにした。この方法を定気法という。漢の『三統暦』以来、平気法が採用されてきたが、清の『時憲暦』から定気法を用いた。
月朔(げっさく)の定め方について、朔望月の平均の長さ29.5306日をもって朔をたてる法を平朔法という。平朔法を使えば月の大小はほぼ交互に現れる。しかし月の実際の運行には遅速があり、これを考慮して朔をたてる法を定朔法(ていさくほう)という。定朔法によると、4回の大月、3回の小月が続くことがある。唐では『戊寅(ぼいん)暦』から定朔法を採用したが、4回の大月が続いたのでまた平朔法を用いた。唐の李淳風(りじゅんふう)は『麟徳(りんとく)暦』でふたたび定朔法を用いた。
中国暦で特筆すべきは『授時暦』である。この暦は積年日法を廃した。積年とは諸周期の共通起点である上元から起算した年数であり、日法とはおもなる周期を日の分数で表したときの共通分母である。『授時暦』では1日を1万分として諸周期の日の端数を表す万分法を採用した。また歳実消長法も取り入れた。消長法を初めて用いたのは宋(そう)の『統天暦』である。明(みん)の『崇禎暦法(すうていれきほう)』になると、中国の固有の暦法はわずかに存するだけで、用数・計算法ともに西洋法に従った。『崇禎暦』は清朝になってその名を『時憲暦』と変えて施行された。
唐時代の元嘉(げんか)、儀鳳(ぎほう)(中国の麟徳)、大衍(たいえん)、五紀、宣明(せんみょう)の五暦は日本でも施行された暦法である。
[渡辺敏夫]