中村七三郎(読み)なかむらしちさぶろう

改訂新版 世界大百科事典 「中村七三郎」の意味・わかりやすい解説

中村七三郎 (なかむらしちさぶろう)

歌舞伎俳優。元禄期(1688-1704)の名優中村七三郎に始まり大正・昭和期の安田直次郎の七三郎まで5世ある。初世が最も名高く2世がこれに次ぐ。(1)初世(1662-1708・寛文2-宝永5) 俳名少長。父は延宝期(1673-81)の立役天津七郎右衛門といわれ,妻は2世勘三郎の長女。初め若衆方,のち若女方を勤め,1681年(天和1)元服して立役となる。〈わたもちの今業平〉といわれ器量よく,〈好色第一のつや男〉また〈春の色役者〉とも賞され,万芸に長じたが,特に濡れ事,やつし事に秀でた。荒事の雄である初世市川団十郎とは両極の芸域を有して相並ぶ名優である。98年(元禄11)上京して演じた《傾城浅間嶽》の巴之丞では,傾城事のうまさで,元祖坂田藤十郎を驚かせたという。また江戸曾我狂言にあって十郎役を和事の風でした最初が七三郎であり,団十郎の五郎,伝九郎の朝比奈とともに後世典範を作ったといわれる。(2)2世(1703-74・元禄16-安永3) 中村明石清三郎の子。初世の養子。1711年(正徳1)正月七三郎を襲名し初舞台を踏み,20年(享保5)春若衆方に進み11月立役となる。初世が名物男の異名をとり,家の芸とした立髪丹前,《浅間嶽》の巴之丞,十郎祐成といった初世の芸を相伝として演じて出世し,和実名人と賞された。67年(明和4)惣巻軸功上上吉,70年11月中村少長と改め,73年(安永2)9月,当り役であった菅丞相一世一代で勤めて舞台を退く。(3)3世(1765-85・明和2-天明5) 2世七三郎の孫。俳名雀童。中村七之助を経て,1770年(明和7)七三郎を襲名。77年(安永6)8世中村勘三郎の婿養子となり,翌年9世勘三郎をついで座元となる。

 4世は2世七三郎の門弟七次の子といわれ,娘方から立役に転じ,1821年(文政4)冬に引退。5世は日本画家安田靫彦の弟。中村扇玉から1920年に七三郎をつぎ,48年に没した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中村七三郎」の意味・わかりやすい解説

中村七三郎
なかむらしちさぶろう

歌舞伎(かぶき)俳優。5世まであるが、初世がもっとも有名で2世がこれに次ぐ。

[服部幸雄]

初世

(1662―1708)俳名少長。初世市川団十郎とともに元禄(げんろく)年間(1688~1704)の江戸歌舞伎を代表する名優。容姿に優れ万芸に長じたが、とくに濡事(ぬれごと)、やつし事を得意とし、「江戸和事(わごと)の名人」と賞賛された。江戸の曽我(そが)狂言で、五郎を荒事(あらごと)の演技様式で演ずるのに対し、十郎を和事様式で演ずることを始めたのはこの人である。

[服部幸雄]

2世

(1703―74)初世の養子。寛保(かんぽう)~明和(めいわ)(1741~72)のころ活躍し、和実(わじつ)の名人とうたわれた。晩年に中村少長と改名した。

[服部幸雄]

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百科事典マイペディア 「中村七三郎」の意味・わかりやすい解説

中村七三郎【なかむらしちさぶろう】

歌舞伎俳優。5世まである。初世〔1662-1708〕は初世市川團十郎と並んで元禄期の江戸で活躍。和事(わごと)系の役を得意とし,《けいせい浅間嶽》の巴之丞は特に好評。2世〔1703-1774〕は初世の養子。和事と実事(じつごと)に長じ,当り役は《曾我》の十郎など。

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