中郷村(読み)ちゆうごうむら

日本歴史地名大系 「中郷村」の解説

中郷村
ちゆうごうむら

[現在地名]川内市中郷町・中郷一―四丁目・原田町はらだちよう東大小路町ひがしおおしようじちよう

ほぼ南流する川内川西岸にあり、南は高城たき水引みずひき郷大小路村、西は同郡高城郷ふもと村、北は薩摩郡とう田海とうみ村、東は川内川を隔てて平佐ひらさ天辰あまだつ村。中世までは高城郡に属していたともみられる。保延元年(一一三五)一〇月二五日の院主石清水権寺主大法師某下文(旧記雑録)に「高城東郷、同仲郷」とみえ、五大院政所正信に対し、院主に代わって仲郷などの五大ごだい院領田畠耕作の管理を撤底するよう命じられている。永和四年(一三七八)一二月一九日の真宗譲状(同書)には、真宗(高城重豊)からその子釈迦王(重貴)に譲与された所領のうちに中郷内五郎ごろうか屋敷一宇が含まれていた。この五郎か屋敷は応永三一年(一四二四)一〇月二六日、しん正(高城重頼か)から亀王(同重政か)に譲与された(「しん正譲状」同書)。永禄一二年(一五六九)冬東郷重尚は島津氏に降り、その際同氏に渡された東郷氏所領のなかに中郷が含まれていた(入来院氏系図)。これにより翌一三年本領東郷を除く東郷氏旧領の中郷などは薩州家島津義虎に与えられた(「長谷場越前自記」「箕輪伊賀覚書」旧記雑録など)

中郷村
ちゆうごうむら

[現在地名]国府町中郷

ちよう村の北西、ふくろ川中流左岸に位置する。法美ほうみ往来から南へ分岐した私都きさいち往来が通り、地内に残る享和元年(一八〇一)銘の万人講供養塔に「右きさいち 左おうかい」と記されている。「和名抄」に載る法美郡広西ひろせ郷と同郡稲羽いなば郷の中間に平安時代末期以降に成立した郷の遺称地と考えられる(国府町誌)。文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)には村境がほぼ直線に描かれており、条里の区画に準じたものと思われる。天文一六年(一五四七)四月二八日の山名豊定宛行状写(岩国徴古館蔵)によれば「法美郡中郷之内栗原分四町」の地が山田重直に与えられている。

中郷村
なかのごうむら

[現在地名]豊岡市中郷

気多けた郡に属し、引野ひきの村の南、円山まるやま川東岸に位置する。西は同郡上郷かみのごう(現日高町)、東は丘陵越しに出石いずし片間かたま(現出石町)に接する。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文にみえる気多郡気多郷は上郷と下郷に二分され、上郷は上郷村一帯に比定されるが、中郷村以北に比定される下郷中に中郷が分立したものと推定されている。

江戸時代の領主の変遷は上佐野かみさの村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に「中ノ江」とみえ、高四三〇石余。

中郷村
なかごうむら

[現在地名]子持村中郷

上白井かみしろい村の南にある。子持山の南麓に位置し東は利根川を隔てて勢多せたねこ(現赤城村)、西は横堀よこぼり村、南は吹屋ふきや村・北牧きたもく村、子持山やなぎヶ峰を隔てて北は利根郡屋形原やかたばら(現沼田市)。東側の人家のほとんどない所を沼田街道西通が通る。中世は白井保の中心に位置していたと思われる。現子持村域には白井五井とよばれる湧水があり、そのうち当村中井なかいには白井の泉があり、白井保の地名起源はこれにちなむともいわれる。

中郷村
なかのごうむら

[現在地名]福井市なかごう

九頭竜くずりゆう川南岸に位置し、北は北野きたの村、南は藤島ふじしま村に接する。中世は藤島庄の中郷の地であったと思われ、貞治五年(一三六六)一一月、足利義詮は朝倉高景に越前国内七ヵ所の地頭職を宛行ったが(「朝倉家記」所収文書)、その中に「中野郷」とあるのがこの地と推定される。「朝倉始末記」によると、永正三年(一五〇六)加賀から越前に侵入した三〇万と号する一向一揆を、朝倉氏は九頭竜川を防衛線として迎え撃つが、その時、朝倉宗滴はその本陣を当村付近に置いた。おそらく当時の朝倉あさくら街道が村域を経由していたからであろう。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には、「中之郷」として高一六八〇・七二一石の記載があるが、その石高から、のちの印内いんない(泉田)・北野の両村の地が含まれていたものと思われる。

中郷村
なかごうむら

[現在地名]朝日町宮宿みやじゆく

最上川上流右岸にあり、北は末吉良ばつきら村、東は新宿あらじゆく村、南は東助巻ひがしすけのまき村、西は西助巻村。天正一五年(一五八七)最上氏の領国経営の一環として中郷本田なかごうほんでん堰が作られ、熊野神社豊龍ほうりゆう神社の林を切開き開田したのが始まりと伝える。正保郷帳に田方一千八五石余・畑方一〇〇石余とある。慶安二年(一六四九)以後松山藩領。東五百川ひがしいもがわ郷中郷組の中心村落で、地内は実際には上宮宿村・下宮宿村・前田沢まえたざわ村の三つに分れそれぞれ名主が置かれていた。寛永二〇年(一六四三)の前田沢村検地帳(山形県史)が残る。元禄三年(一六九〇)の中郷組検地帳(今井文書)では前田沢村高三一一石余・家数二八、下宮宿村高一一五石余・家数一七、上宮宿村高二二八石余・家数二五とある。

中郷村
なかのごうむら

[現在地名]小松島市中郷町

小松島浦の西に位置し、南部から東部にかけて神田瀬かんだせ川が東流する。村の西部を土佐街道が通る。地内に泰地氏を主将とする中郷城があるという(城跡記)。近世は勝浦かつうら郡のうちで、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「中ノ江村」と記される。寛永六年に新田高八三石余があったという(天保五年「阿波国淡路国内郷村高帳」蜂須賀家文書)

中郷村
なかごうむら

[現在地名]輪之内町中郷

福束ふくづか輪中のほぼ中央に南北に細長く開け、西はさと村。「和名抄」にみえる安八郡那珂なか郷の旧地とする説がある(新撰美濃志)豊臣秀吉から与えられた天正一六年(一五八八)一二月一二日の市橋長勝領知目録(内閣文庫蔵)に「弐拾弐貫文 同(半分) 中郷」とみえる。慶長郷帳では村高四四三石余、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では旗本別所重家領。

中郷村
なかごうむら

面積:四三・三六平方キロ

中頸城郡の南域にあり、北は新井市、南と東は妙高みようこう村、西はわずかに西頸城郡名立なだち町に接する。西端は大毛無おおけなし(一四二九メートル)不動ふどう(一四三〇・一メートル)などの山々で、高床たかとこ(六三九・七メートル)以東の高原は現在陸上自衛隊関山せきやま演習場となっている。村域中央を渋江しぶえ川、東寄りを片貝かたかい川が北東流し、その間には標高二〇〇―六〇〇メートルの高原地帯が開ける。片貝川に沿って国道一八号(北国街道)と国鉄信越本線が通る。

中郷村
なかごうむら

[現在地名]寒河江市中郷

平塩ひらしお村の西、最上川南岸の河岸段丘に立地し、集落は川沿いに左沢あてらざわ(現西村山郡大江町)に向かう街道沿いに形成されている。地名は平塩、伏熊ふしくま(現大江町)と当地で三郷をなし、その中間に位置したことによるらしい。中世は長崎ながさき(現東村山郡中山町)を本拠とする中山氏の支配下にあったとみられ、「最上実録分」に中郷は「元中山玄蕃頭領長崎楯持也」とあり、高六七六石余。

中郷村
なかごうむら

[現在地名]真岡市中郷

五行ごぎよう川西岸、東郷村の北西に位置する。慶長三年(一五九八)宇都宮藩領となり、同六年真岡藩領、寛永九年(一六三二)相模小田原藩領、天明三年(一七八三)幕府領。慶安郷帳によると田高五六四石余・畑高一一七石余。寛文一〇年(一六七〇)の村々明細帳(渡辺善兵衛文書)によれば、村の東西六町四〇間・南北九町一〇間、田三四町八反余・四一六石余、畑一五町二反余・一一一石余、年貢米二〇〇石余・永一一貫九九八文余、家数四四(うち無田百姓八)・人数一八二、馬二二、寺は宝性院(寄付高二石六斗余)。天明三年の飢饉の被害は大きく、同四年人別九三人のうち飢人八二人(男四五・女三七)であるとし、飯貝いいがい村とともに救済願を代官所に出している(「夫食拝借飢人別調」大塚一郎文書)

中郷村
なかごうむら

[現在地名]春日村美束みつか 中瀬なかぜ

種本たねもと村の西に広がる村で、東部に枝郷の中瀬がある。正保郷帳では田三七石余・畑一三石余・山年貢三斗・紙桑木高四斗余、小物成に綿六五六匁・ひそ木一九五本・入木三五六束があった。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳に高八〇石余とあり、うち本村分五二石余・南中郷分二七石余。元禄一三年(一七〇〇)の西山村諸色差出帳(所文書)では家数四八・人数一八七。

中郷村
なかごうむら

[現在地名]大子町中郷

八溝やみぞ川の支流中郷川流域に位置し、南は上郷かみごう村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「黒沢中郷村」とみえ、同二一年の御知行割郷帳によると川澄勘解由ら六人の給地であった。「新編常陸国誌」によると万治元年(一六五八)黒沢の称を廃して中郷と改めた。天保郷帳に「中郷村」とみえる。「新編常陸国誌」によると天保一三年(一八四二)の検地では田畠六三町余、分米四七二石余であった。

万治三年の□□諸浮役之事(中郷区有)に「一、金弐両三分本鐚八百文 紙船役 口銭三百六拾六文 此船弐拾六艘 内中弐艘 但壱艘ニ八百文宛 下三艘 但壱艘ニ六百文宛 下々船弐拾壱艘 但壱艘ニ四百文宛」とみえ、また「酒桶役四百文口銭拾弐文桶四尺二つ、万米払壱貫三百六拾三文、米払江戸御材木為御取被成候時分枝葉、鳥運上壱分鐚六百三拾四文、茶荷口金弐分鐚七百弐文此茶百弐拾四表、紙荷口銭百弐拾四文此紙四箇」とある。

中郷村
ちゆうごうむら

[現在地名]中川区中郷町・中郷

荒子あらこ川を隔てて高畑たかはた村・荒子村の西にある。集落は三ヵ所に分れ、村の北西に本郷、その東に寺脇てらわき、南に狐起きつねおこしがあり、いずれも現在小字名として残る。寛文一一年(一六七一)の家数一〇二、人数六二五(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田畑四四町三反余のうち田が一八町四反余を占め、概し以降の新田が九反ある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報