日本歴史地名大系 「京田村」の解説 京田村きようでんむら 富山県:高岡市旧射水郡小矢部川右岸地区京田村[現在地名]高岡市京田千保(せんぼ)川と庄川の中間、上関(かみぜき)村の東方、下黒田(しもくろだ)村の北方に位置。正保郷帳では高三四五石余、田方一七町三反ほど・畑方五町七反余、新田高四一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高四〇二石、免四ツ二歩(三箇国高物成帳)。灌漑は西八(にしはつ)ヶ用水を利用した(「郡事摘要」折橋家文書)。西八ヶ用水は庄川を水源とし八ヵ村を潤し、その水当高三千三五二石余(同書)。文化九年(一八一二)一歩刈が行われ、同年の高四〇二石のうち上田七〇石・中田一〇三石・下田一九七石余・畑居屋敷三一石余。その一歩刈の実収は上田六合四五・中田五合八二・下田二合八六(「歩刈算法留」川合家文書)。 京田村きようだむら 京都府:舞鶴市中筋地区京田村[現在地名]舞鶴市字京田田辺(たなべ)城下の南方、舞鶴平野を望む山麓に位置し、京街道に沿う。高野(たかの)谷の出口にあたる。集落の西方の山にある正勝(まさかつ)神社境内から古墳(正勝神社内古墳)が発見されている。中世以来順次開拓が行われたと推測され、江戸初期には「興田」と記している。小字名にも道成(どうじよう)・引地(ひきじ)・五反田(ごたんだ)・新田防(しでんぼう)など開拓を示すものがある。慶長検地郷村帳に高三三一・一八石「興田村」とみえるが、江戸後期の土目録では三五六石余(田方三一六石余、畑方四〇石余)となっており、その後も開拓が進められたことがわかる。 京田村きようでんむら 山形県:飽海郡遊佐町京田村[現在地名]遊佐町吉出(よしで)吉出村の北西にあり、北は下野沢(しものざわ)村。地名は羽黒山の経田であったことに由来する(出羽国風土略記)。古堰の大堤(おおつつみ)近くから「宮」と記した墨書土器が出土している。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録には経田村とみえ高二五六石余。寛永元年庄内高辻帳では京田村とあり高二六二石余。享和三年(一八〇三)には家数一二・人数六二(「村数家数人高控帳」斎藤文書)。 京田村きようでんむら 千葉県:鴨川市京田村[現在地名]鴨川市京田池田(いけだ)村の東に位置する。寛文元年(一六六一)池田村から分村して成立。元禄郷帳に「池田京田村」とみえ高二三二石余。元禄一〇年(一六九七)旗本京極領となり、幕末に至る(「寛政重修諸家譜」・元文村高帳など)。文化二年(一八〇五)の東牧捕馬御用人足触状(永井家文書)によると、人足一四人が動員されている。 京田村きようでんむら 新潟県:上越市旧高田市地区京田村[現在地名]上越市京田向橋(むかばし)村の北東、金谷(かなや)山の東に位置し高田城下に接する。城下から出て当地を通り新井(あらい)村(現新井市)に至る道がある。地名は金谷山の薬師如来の経田があったことによると伝える。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by