フランス社会党
ふらんすしゃかいとう
Parti Socialiste Français フランス語
1969年に発足したフランスの中道左派政党。略称はPS。その前身は、1905年に共産主義者や社会民主主義者を集めて発足したSFIO(Section Française de l'Internationale Ouvrière、労働者インターナショナルフランス支部)にある。SFIOからは1920年に党内左派の共産主義派が分離し、新たにフランス共産党が発足した。そのためSFIOは戦後期を含め、綱領では革命志向を残しつつも、実際には中産階級に支持される中道左派政党として連立政権与党の一角を占めていた。
しかし、与党としてのSFIOは1950年代のアルジェリア危機に対して首相ギ・モレGuy Mollet(1905―1975)を含めて無策に終わり、ドゴールに政権の座を譲り渡し、歴史的な敗退を余儀なくされた。1958年に第五共和政となった新たな憲法体制のもと、左派勢力は分裂していたが、1965年の大統領選挙での選挙連合をきっかけに、統一が模索される。ドゴールの退陣した後の1969年には新社会党(NPS:Nouveau Parti Socialiste)が発足し、さらに1971年のエピネー大会で、旧SFIO派を含む形で発足したのがフランス社会党(PS)であった。
[吉田 徹 2018年7月20日]
1970年代は、社会党躍進の時代にあたる。エピネー大会で左派勢力の大同団結を成し遂げて第一書記に選出されたミッテランは、その後共産党との共通公約や選挙協力などによって、党勢拡大に成功した。1970年代後半には、共産党にかわり、保守・中道の与党勢力に対する野党第一党の地位を確立することになる。この時代には地方議会選でも大勝し、多くの市町村で社会党の政治家が誕生した。
党首ミッテランは1974年の大統領選で中道のバレリー・ジスカール・デスタンを前に敗退したものの、ふたたび両者の対決となった1981年の大統領選で勝利、続く下院選でも地すべり的勝利を収め、社会党は約四半世紀の長い野党生活から抜け出すことになった。ミッテランと社共政権は「フランスの社会主義」を掲げ、死刑廃止や地方分権、放送の自由化など革新的な政策を実現したものの、インフレと失業率上昇の景気後退により、国有化をはじめとする大きな政府路線を撤回、経済政策では社会主義路線を撤回することになる。このため1986年の下院選ではジャック・シラク率いるRPR(Rassemblement Pour la République、共和国連合)に敗退し、大統領と首相の党派が異なる保革共存(コアビタシオン)となって、社会党は野党に転落する。その後、ミッテランが1988年に大統領に再選され、解散総選挙で社会党はふたたび与党となった。しかし小数派政権として安定を欠き、党幹部同士の路線闘争も続いたため、1993年の下院選ではふたたび野党へと転じた。
[吉田 徹 2018年7月20日]
社会党が共産党や緑の党などとともに、与党に返り咲くのは、大統領シラクのもとで行われた1997年の解散総選挙によってであった。コアビタシオンのもとで首相となった社会党のジョスパンLionel Jospin(1937― )は、そのまま2002年の大統領選に挑むものの、左派票の分裂によって極右政治家ジャン・マリ・ルペンJean-Marie Le Pen(1928― )に決選投票進出のすきを与えてしまった。2007年の大統領選でも初の女性候補ロワイヤルSégolène Royal(1953― )がUMP(Union pour un Mouvement Populaire、国民運動連合)のサルコジ候補に負け、三度続けて大統領選で敗北する憂き目にあう。
[吉田 徹 2018年7月20日]
2012年の大統領選では、公開予備選で選ばれた社会党のオランド候補が現職大統領サルコジを降(くだ)し、ミッテランが大統領再選を果たした1988年から約四半世紀を経て、社会党の大統領が誕生した。もっとも、公約ではきわめて左派的路線を色濃くして支持を集めたものの、ユーロ危機の影響から過去最高の失業率を経験したこともあって、大統領オランドおよびエローJean-Marc Ayrault(1950― )内閣は、記録的な低支持率にあえぐことになった。さらに2016年のシャルリー・エブド襲撃事件やパリ同時多発テロ、中東からの難民流入危機などにみまわれ、オランドは求心力を急速に失い、2017年の大統領選への不出馬を決めることになった。2016年の公開予備選で一般有権者の票で選ばれたのは内閣で教育担当相を務めたブノワ・アモンBenoît Hamon(1967― )であったが、大統領選では6.4%と、社会党候補者として歴史的な敗北を喫した。
[吉田 徹 2018年7月20日]
社会党の候補にかわって2017年の大統領選で左派票を集めたのは、オランドのもとで経済相を務めていたマクロン候補、共産党と協力し、かつて社会党に在籍していた極左のメランションJean-Luc Mélenchon(1951― )候補であった。大統領となったマクロンは社会党政治家を含む形で超党派内閣を発足させ、その結果社会党は壊滅状態に追いやられている。
社会党は綱領や政策では急進的な方針を掲げて選挙を勝ち抜くものの、政権与党になると現実主義路線をとらざるを得なくなり、支持者が離反するという経験を繰り返してきた。その矛盾に耐えられず、組織的に空中分解してしまったのが2017年の大統領選であった。ふたたび1970年代のように勢力を再結集することができるかが注目される。
[吉田 徹 2018年7月20日]
『吉田徹著『ミッテラン社会党の転換』(2008・法政大学出版局)』
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フランス社会党
フランスしゃかいとう
Parti Socialiste
フランスの政党。 1904年の第2インターナショナル・アムステルダム大会決議に基づき,それまで分裂していた「フランス国社会党」 Parti Socialiste de Franceと「フランス社会党」 Parti Socialiste Françaiseとが統合して翌 05年に結成された。正式の党名は「労働者インターナショナル・フランス支部」 Section Française de l'Internationale Ouvrièreであった。 14年には 103の議席を獲得するにいたったが,20年 12月の党大会において,コミンテルン加盟に賛同する多くの党員が脱党して,フランス共産党を結成した。その後党は L.ブルムの指導下に再建をはかり,急進社会党と結んでカルテル・デ・ゴーシュを形成した。やがて党は人民戦線運動の中核となって行動したが,人民戦線内閣は短命に終った。 46年 11月,第2次世界大戦後最初の総選挙で,ブルムが社会党の単独内閣を,47年同党の P.ラマディエが挙国一致内閣を組織した。次いで 58年に党は第五共和政の発足に貢献したが,アルジェリア問題で分裂し,分裂派は統一社会党 PSUを結成した (1960) 。 67年急進党などと「左翼連合」を結成したが,翌年これを解体し,71年6月共和政会議派などと合同して新たな社会党を結成した。 72年6月以来フランス共産党と「共同政策綱領」を協定し,73年の総選挙,74年5月の大統領選挙にも順調に勢力を拡大したが,77年に入り共産党との間に綱領の理解について食違いを生じ,78年3月の総選挙に左翼勝利を導くにいたらなかった。しかし 81年5月の大統領選挙では社会党の F.M.ミッテランが当選し,念願の政権を獲得した。同年6月の総選挙でも社会党が大躍進した。共産党との連合政権を樹立したが,84年7月のファビウス内閣では社共連合を解消し,社会党の単独政権となった。 86年3月の総選挙では保守連合が勝利して保守のシラク内閣が形成された。保革共存政権 (コアビタシオン) が登場したわけである。しかし 88年5月の大統領選挙ではミッテランが再選された。そこでシラク内閣は総辞職し,社会党の M.ロカールが後継首相に任命された。同年6月の総選挙では社会党が第1党の地位を維持し,ロカールが再び首相に指名された。その後,ロカール内閣の支持率は次第に低下し,91年5月には局面打開のため E.クレッソンがフランス初の女性首相に起用され,組閣したものの,クレッソン内閣は支持率低落に悩む社会党の救世主になれず,92年3月には結党以来最低の支持率を記録した。 93年3月の総選挙では大敗を喫し,94年のヨーロッパ議会選挙でも敗北。 95年5月の大統領選挙には L.ジョスパンが出馬したが共和国連合の J.シラクに敗れた。しかし,97年6月の総選挙では左派連合が勝利し,第1書記のジョスパンが首相に就任,保守のシラク大統領のもとでの保革共存政権が成立した。 98年3月の統一地方選挙でも左派連合が勝利,ジョスパン内閣の地位は強固なものとなった。
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フランス社会党 (フランスしゃかいとう)
Parti socialiste français
フランスの社会主義政党。略称PS(ペーエス)。1905年4月,ゲード派,可能派,アルマン派,ジョレス派などフランス社会主義の諸潮流が第二インターナショナルの指示にもとづいて統一し,社会党(正称は労働者インターナショナル・フランス支部Section française de l'internationale ouvrière,略称SFIO)をつくった。マルクス主義の原則を受け入れ,〈階級闘争および革命の党〉と宣言して,大戦前夜には100名の下院議員を擁する政党に発展したが,第1次世界大戦開戦直前,党を統合してきたジョレスが暗殺され,戦争勃発とともに党はブルジョア諸党と神聖同盟をつくって戦争に協力し,ゲード,サンバ,トーマが戦時内閣に入閣した。しかし戦争末期には協力派への批判が強まり,20年末のトゥール大会では第三インターナショナルへの加盟を決定し,のちに共産党と称した。加盟に反対する少数派はブルムらにひきいられて別に執行部をつくり,社会党の名称を保持した。当初2万にすぎなかった党勢は順調に回復し,32年には党員13万7000,下院の議席129をもつ大政党となった。それとともに党の基盤はホワイトカラー,知識人,下層中産階級に移り,共産党と対立して,急進社会党と閣外で協力した。しかし34年,共産党の戦術転換にともなって社共両党の統一戦線が成立し,それは急進社会党をも含めた人民戦線運動に発展した。36年4~5月の総選挙で社会党は第1党となり,党首ブルムを首班とする人民戦線内閣が成立,人民戦線綱領の実現につとめた。40年夏,敗戦によって党は分裂した。社会党議員の多数はペタン元帥への全権付与に賛成したが,37名の議員は反対投票を行った。抗戦を主張していたブルムはビシー政府に逮捕され,多くの党員はいち早く対独地下抵抗運動に参加した。解放後初の総選挙では人民共和運動,共産党に次いで第3党となり,第四共和国憲法の成立に大きな役割を演じたが,しだいに反共色をつよめ,47年5月ラマディエは閣内から共産党を追放した。三党政治の崩壊後社会党はいわゆる第三勢力の主要構成要素として第四共和国の政府に多数の首相,閣僚を送ったが,党首ギ・モレの内閣はスエズ出兵の汚点を残し,党の影響力は漸次低下した。59年,モレはアルジェでの反乱を背景に登場したド・ゴール政府に国務相として入閣,第五共和国憲法の作成に協力したが,反対派は離党して独立社会党をつくった。69年社会党(SFIO)は社会党Parti socialisteに改組し,指導部からモレをしりぞけて脱皮をはかったが,ド・ゴール辞任にともなう大統領選挙で惨敗を喫し,71年ミッテランの共和制度会議と合同してミッテランを第一書記に選出した。この新しい社会党Parti socialisteは72年,政府綱領を発表,つづいて共産党と左翼連合の共同綱領を作成するなど党の刷新につとめ,73年の地方選挙以来得票率で共産党を抜く勢いを示した。74年の大統領選挙で左翼統一候補として立候補し惜敗したミッテランは,81年5月の大統領選挙では勝利を収め,社会党を中心に共産党を含んだ政権が誕生した。
執筆者:山極 潔
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「フランス社会党」の意味・わかりやすい解説
フランス社会党【フランスしゃかいとう】
1905年ジョレスの指導のもと社会主義諸派が合同して結成。当時の正称は〈インターナショナル・フランス支部(SFIO)〉。しかし,労働者はサンディカリスムにひきつけられていたため,大衆的政党となり得なかった。1920年分裂,左派はフランス共産党を結成。1936年の選挙で第1党となり,党首ブルムを首班とする人民戦線内閣をつくった。第2次大戦後はモレの指導下に中道左派の路線をとり,1950年代半ばまでしばしば連立内閣を組織した。1969年,SFIOから社会党(Parti socialiste。略称PS)に改称。1971年ミッテランの共和制協議会,カトリック左派などが合流し,中道左派から新左翼までを包含。1981年の大統領選でミッテランが当選,1988年再選された。1997年の大統領選ではジョスパンが共和国連合のシラクに敗れたが,1997年総選挙で第1党となった社会党はジョスパン連立内閣を組織した。2002年の大統領選挙では再びジョスパンが社会党の候補となったが現職のシラクに敗れ,2007年の大統領選では,セゴレーヌ・ロワイヤルが国民運動連合のニコラ・サルコジに敗れた。その間党勢は必ずしも退潮傾向にあったわけではなく,2010年3月の地方選では,国民運動連合などの右派・保守層の得票を大きく上回る勢いを見せた。2012年5月の大統領選で,フランソワ・オランドが現職のサルコジを破って当選,17年ぶりに社会党出身の大統領が誕生した。大統領選に続いて行われた国民議会選でも単独過半数を制し,社会党を中心とする左派が,国民議会から地方議会まで政治的多数派を形成することとなった。
→関連項目カシャン|ゲード|第四共和政|デュベルジェ|フランス|ブリアン
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フランス社会党(SFIO,PS)(フランスしゃかいとう)
Section Française de l'Internationale Ouvrière,Parti Socialiste
1905年に社会主義諸派が統一して誕生。集産主義をめざした。ジョレス派とマルクス主義のゲード派が主導権を握るが,20年に左派が共産党を結成して分裂,党内に社会民主主義が強まる。36年に党首レオン・ブルムが人民戦線内閣の首班として,反恐慌,反ファシズム,文化革命の実験を行うが,党内対立やナチスの台頭で迷走し,40年には同党議員の多くもペタンに全権を付与した。第四共和政下では,三党政府に参加し,ド・ゴール派と共産党に対抗する第三勢力としてしばしば政権を担うが,56年のギ・モレ内閣のようにアルジェリア戦争を解決しえず,長期低落を余儀なくされた。71年にミッテランを党首に生まれ変わり(PS),翌年に左翼共同政府綱領に調印したが,77年に共産党が同綱領を破棄したため,自主管理路線を歩む。70年代の不況による経済格差の拡大の前で,81年に大統領選と総選挙で勝利し,社会民主主義の実験を行い,97年からはジョスパン首相が政権を率いて,政権担当能力を示した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
フランス社会党
フランスしゃかいとう
Parti Socialiste Section Fransaise de l'Internationale Ouvrière
1905年,社会主義諸派を結集して組織されたフランスの政党。略称SFIO
第2インターナショナルのアムステルダム大会の一国一社会党決議にもとづいて組織され,ドイツ社会民主党とともに西欧社会主義政党の重鎮であった。第一次世界大戦とロシア革命ののち,共産党と対立したが,1935年に共産党・急進社会党とともに人民戦線を結成し,翌年党首ブルムが人民戦線内閣を組織してファシズムに抵抗した。第二次世界大戦後,共産党の進出とともに保守化したが,1971年に再編成された。1981年ミッテランが大統領に当選したが,深刻な失業者問題をかかえ,93年の総選挙で大敗した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のフランス社会党の言及
【クロア・ド・フー】より
…30年にド・ラ・ロックFrançois de La Rocque中佐が指導権を握ると大衆的政治団体に変化し,“家族・労働・祖国”というスローガンをかかげて急進的右翼のブルジョア青年を吸収し,もっとも強力なファシズム運動として警戒された。36年,ブルム政府に解散を命ぜられ,フランス社会党と改名,政党に転じた。【山極 潔】。…
※「フランス社会党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」