小説家。明治37年6月1日、長崎市に生まれる。本名イネ。まだ中学生であった田島正文と女学生の高柳ユキとの間に生まれたため複雑な経緯を経て、5歳のとき実父母の籍に養女として入籍。1915年(大正4)父の三菱(みつびし)造船所退職に伴い一家で上京。由緒ある家系の田島家であったが、たび重なる父の蹉跌(さてつ)により貧窮のどん底に陥る。稲子も向島(むこうじま)牛島小学校を中退してキャラメル工場で働く。以後、料亭の女中、丸善の店員などを経験する。急激な境遇の変転と、最初の結婚・離婚の辛苦のため、一時厭世(えんせい)的になるが、女給として勤めた本郷のカフェー「紅緑」で『驢馬(ろば)』の同人中野重治(しげはる)、堀辰雄(たつお)らと知り合い、人生・文学両面に開眼させられる。その後、同人の一人窪川鶴次郎(くぼかわつるじろう)と結婚。左翼運動に身を投じて、検挙の非道さを体験する。28年(昭和3)『キャラメル工場から』を発表、作家生活に入る。32年共産党に入党。日本プロレタリア作家同盟婦人委員として活躍をするが、41年以降は、戦時下の国家体制のもとで思想的に後退、結婚生活にも破綻(はたん)をきたす。戦後の64年(昭和39)、共産党の思想・政治的方針を批判して除名される。この事件により、長い間絡んでいた党の政治的認識や党派的な偏見などに対する複雑な思いから完全に解放されたことを自覚する。戦後の創立時からリーダーを務めた「婦人民主クラブ」の活動を一貫して続け、1970年から85年までは委員長を務めた。『女の宿』(1963)で女流文学賞、『樹影(じゅえい)』(1970~72)で野間文芸賞、『時に佇(た)つ』(1975)で川端康成(やすなり)賞を受賞。ほかに『くれなゐ』(1936~38)、『素足の娘』(1940)、『私の東京地図』(1946~48)、『歯車』(1958~59)、『灰色の午後』(1959~60)、『渓流』(1963)、中野重治の追想記『夏の栞(しおり)』(1982)などがある。
[岡 宣子]
『『佐多稲子全集』全18巻(1977~79・講談社)』
昭和・平成期の作家
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…佐多稲子(1904‐ )の中編小説。1936年(昭和11)1~5月の《婦人公論》に連載,最終回〈晩夏〉は38年8月の《中央公論》に発表。…
…第3は,原爆がもたらした悲劇を庶民の日常生活をとおして書き,文学史に残る傑作と称される井伏鱒二の《黒い雨》(1965‐66)のように,被爆者ではないが,広島,長崎と出会った良心的な文学者たちによって,さまざまな視点から広島,長崎,原水爆,核時代がもたらす諸問題と人間とのかかわりを主題とする作品が書かれた。作品に佐多稲子《樹影》(1970‐72),いいだもも《アメリカの英雄》(1965),堀田善衛《審判》(1960‐63),福永武彦《死の島》(1966‐71),井上光晴《地の群れ》(1963),《明日》,高橋和巳《憂鬱なる党派》(1965),小田実《HIROSHIMA》(1981)などがある。なかでも特筆すべきは大江健三郎(1935‐ )の存在で,1963年に広島に行き《ヒロシマ・ノート》(1964‐65)を発表して以来,〈核時代に人間らしく生きることは,核兵器と,それが文明にもたらしている,すべての狂気について,可能なかぎり確実な想像力をそなえて生きることである〉とする核時代の想像力論を唱え,《洪水はわが魂に及び》(1973),《ピンチランナー調書》(1976),《同時代ゲーム》(1979),《“雨の木(レインツリー)”を聴く女たち》(1982)などの作品を書き,国内だけでなく外国でも高く評価された。…
※「佐多稲子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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