イネ(読み)いね

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イネ」の意味・わかりやすい解説

イネ
いね / 稲
[学] Oryza sativa L.

イネ科(APG分類:イネ科)の一年草。アジアのモンスーン地帯を中心に世界の温帯と熱帯に広く栽培され、その子実である米は、世界の人口の半分以上が主食としている。日本では古名を志泥(しね)(『古事記』)、之禰(しね)(『和名抄(わみょうしょう)』)、伊奈(いな)(『万葉集』)などとよび、漢字では稲を用いているが、中国ではさらに粳(こう)(粳(うるち)種)と、稌(糯(もち)種)とに使い分けている。

[星川清親]

起源

栽培イネに近縁の野生イネは、多年生のオリザ・ペレニスO. perennis Moenchで、南アフリカからインド、インドネシア、ニューギニア、南アメリカに及ぶ広い地域に分布する。このうち、アジア型(subsp. balunga)が栽培化され、一年生の栽培イネであるオリザ・サティバO. sativa L.が生じたと考えられている。インド東部を中心とする地域では、いまから4000~5000年以前に、すでにイネが栽培されていたといわれ、最近の研究では、原産地は中国南部の雲南(うんなん)からインド最東部のアッサムにかけての地域と推測されている。一方、西アフリカのニジェール川中流地域からチャドに至る地域には、イネに近縁なアフリカイネO. glaberrima Steud.が小規模ながら栽培されていて、オリザ・サティバと同じころか、あるいはもっと古くから栽培化されたとみられている。

[星川清親]

系統と特徴

イネには日本型(subsp. japonica Kato)とインド型(subsp. indica Kato)の2亜種がある。日本型は日本、朝鮮半島、台湾、中国大陸北部などのほか、ブラジル、アメリカのカリフォルニア州など比較的高緯度地域で栽培され、米粒は丸く短く、炊くと粘り気があり、日本人の好みにあう。インド型は日本で普通、インディカ米、タイ米、南京米(ナンキンまい)などと称され、東南アジアを中心にアフリカ、アメリカ南部、イタリアのロンバルディア地方に代表される地中海沿岸など、主として低緯度地域に栽培される。米粒は細長く、炊いても粘り気が少ない。このほか両型の間には、植物体の形状、病害に対する抵抗性、肥料に対する反応など多くの点で差異がある。

 イネは元来、水生植物で、水田に栽培される水稲(すいとう)(みずほ)が主であるが、大きな変異性をもち、種々の自然環境に適応できる能力をもつ。その一つに浮稲(うきいね)とよばれる生態型がある。熱帯アジアのメコン川やガンジス川流域では、雨期になると水が増し、水田は1~3メートルの水で覆われるが、浮稲は、水が増すにつれて節間が伸び、数メートルの高さとなり、水面上で実を結ぶ。また、水が少なくても生育でき、畑に栽培される陸稲(りくとう)(おかぼ)がある。東南アジアの山地での焼畑農業の主作物になっており、日本でも東北、関東、九州の畑地に少量栽培される。

 いずれの生態型も胚乳(はいにゅう)デンプンの性質として粳と糯がある。粳米デンプンは15~30%のアミロースと70~85%のアミロペクチンとからなり、糯米のデンプンはほとんど100%がアミロペクチンで、粘りが強い。ヨウ素反応は粳米では青色を呈し、糯米は反応が弱く赤褐色となる。糯米の胚乳は、乾燥すると不透明な乳白色となることが多い。なお、アフリカイネはすべて粳種で、糯種はない。

[星川清親]

栽培の歴史

日本の稲作の歴史は、縄文時代晩期に中国大陸の南部から、稲作技術をもった人々が渡来したことにより始まったと考えられる。渡来した当初は北九州で栽培が行われ、1世紀の初めころには中国、四国に、さらに近畿地方にと徐々に伝播(でんぱ)し、3、4世紀ころには関東に及んだ。こうして弥生(やよい)時代には、静岡の登呂(とろ)遺跡に代表されるような、かなり高度の技術をもった水田稲作が広い地域で行われていた。平安時代に入るころ(8世紀)には稲作は東北地方にまで広まり、9世紀初めには栽培面積は100万ヘクタールを超えていた。さらに鎌倉時代には本州最北端の津軽まで稲作が及び、江戸時代末期までに栽培面積は250万ヘクタールとなった。なお、最近の考古学的研究によって、津軽地方で縄文時代の終わりに水稲栽培があったとみられるなど、東北地方でのイネの栽培史はもっと古いとみられるに至っている。明治以降は耐寒性品種の育成や栽培技術の進歩によって北海道での栽培を可能にし、大正時代には栽培面積は300万ヘクタールに達した。

 技術的には、初期は籾(もみ)を直接水田に播(ま)いて育てていたが、奈良時代には苗をつくって移植する栽培法が一般化した。収穫も、穂をとっていたものが、株を刈る方法にと変わってゆき、遅くとも平安時代初期までには、田植、株刈りの稲作技術が確立した。鎌倉時代には品種、熟期、品質への関心が増し、施肥、除草、裏作などの技術も進んだ。江戸時代に入ると、水や風、篩(ふるい)などを利用して、良質の種籾を選ぶ技術が普及し、苗代(なわしろ)管理や播種(はしゅ)法が集約化した。また、溝を掘って排水を早めたり、客土などの土地改良も行われた。この結果、江戸時代末期には10アール当りの玄米収量は150~170キログラムとなった。明治時代になってからは、総合科学としての農学的な視野からの研究が始まり、また遺伝学に基づく育種が国の試験研究機関によって組織的に行われるようになった。これに伴い、10アール当りの玄米収量は、大正時代初期には250キログラムほどに伸び、昭和中期に300キログラム台となり、1965年(昭和40)には400キログラムを超え、1980年代以降は平年作で500キログラムに達している。

 品種は、古くから早生(わせ)、晩生(おくて)の分化があったが、平安時代には中生(なかて)品種も現れ、江戸時代には災害回避のために、早・中・晩生の数品種を組み合わせた栽培が行われていた。

[星川清親]

生育と栽培

種籾・発芽

イネの栽培はよい種籾を選ぶことから始まる。塩水の比重を利用した塩水選により、浮いた籾を取り除き、種籾を得る。塩水の比重は、一般的な粳無芒(うるちむぼう)品種の場合は1.13、芒(のぎ)のある粳品種や糯品種の場合は1.08~1.10とする。塩水のかわりに硫安を水に溶かして用いることもある。選種後はよく水洗いし、種籾消毒剤で消毒する。これは、籾には前年に発生した、いもち病やごま葉枯(はがれ)病、馬鹿苗(ばかなえ)病などの胞子が付着しているからである。

 籾の発芽は水分の吸収から始まる。まず胚が肥大して籾の稜線(りょうせん)基部を押し破って白く露出し、ついで鞘葉(しょうよう)と種子根が現れる。この状態をハト胸期とよび、種播きの目安となる。イネの発芽の最適温度は30~34℃であるが、約10℃以上であれば適当な水分と酸素のもとで発芽する。現在は機械移植なので、生育をそろえるために、ハト胸期にそろった催芽籾(さいがもみ)を播くことがたいせつである。このため、低温下で十分に水を吸わせた種籾を、ほぼ24時間、32℃前後に置き、発芽させる。

[星川清親]

育苗

これを、土(床土)を入れた育苗箱に播く。紙、パルプ、石油系発泡樹脂、ロックウールなどでつくられた人工培地も用いられている。一般的な育苗箱は、60センチメートル×30センチメートル、深さ3センチメートルの木製またはプラスチック製である。機械で播く場合、催芽籾の芽が伸びすぎていると、播種機が詰まったりして均一に播けない。播種後、灌水(かんすい)し、薄く土で覆い(覆土)、電熱育苗器に入れ、32℃で2昼夜置くと、ほぼ1センチメートルに芽が出そろう。暖かい地方では、育苗器を用いないで、ビニルフィルムなど被覆材料による太陽熱の保温による簡易な無加温出芽法も行われている。

 出芽後は、筒状の鞘葉を破って第1葉が現れる。イネの葉は葉身と葉鞘(ようしょう)とからなるが、第1葉は葉身がなく、不完全葉ともよばれる。その後、第2葉、第3葉と次々に新しい葉が現れる。また、1本の種子根に次いで各節部から多くの冠根が出現する。出芽後、育苗器から急に強い光の下に出すと、苗が白化してしまうので、弱光下で光に慣らし(緑化という)、25℃前後で2日間置く。その後、ビニルトンネルやハウスに出して並べ、初期には20℃前後に保温し、徐々に自然の気温に慣らす(硬化という)。苗は、初期には種籾中の貯蔵養分を吸収しながら成長するが、第4葉が出るころには籾の養分はすっかりなくなり、その後は苗床の養分を吸収して成長することになる。

[星川清親]

苗の種類

育苗の方法は、今日の田植機による移植用の苗の育成と、従来どおりの手植えによる苗代を利用した苗作りとでは、大きな違いがある。田植機で移植する苗には、稚苗(ちびょう)と中苗とがある。稚苗とは、第3葉が展開し、第4葉がその2割ほど抽出した苗(3.2齢苗)をいう。この齢の苗は比較的低温に強く、また新しい根が出る直前で、移植後の活着が早い。稚苗をつくるには、育苗箱に約200グラムの催芽籾を播き、20日間ほど置くと、箱当り約7000本の稚苗が完成する。これは作物育苗中でもっとも密播き・密植な育苗で、この密度では、3.2齢を過ぎると、苗はほとんど成長せず、衰弱し始める。このため、移植適期が短く、大量の苗を扱う育苗センターや、休日にしか農作業のできない兼業農家にとって、大きな問題点となっている。この解決策の一つとして、育った苗を貯蔵しておいて移植する苗貯蔵法などが行われている。中苗とは、従来の手植え用苗と稚苗との中間的な苗のことで、4~6枚の葉をもつ苗をさす。暖地の二毛作晩植や高冷地など、稚苗より齢の進んだ苗が要望される場合に使用される。播種量は催芽籾で100~150グラム、育苗箱の底に穴をあけ、根を箱下に伸び出させる。育苗日数は30~40日を要するが、移植適期の幅は稚苗より長い。

 これらの苗に対し、従来の手植え用の苗を成苗とよび、苗代で育てられる。苗代には、湛水(たんすい)(水をたたえること)状態に保つ水苗代と、畑状態の畑苗代、両者の利点をあわせた折衷苗代とがある。水苗代は古くからの技術で、水分不足はなく、雑草の発生も少ないが、根の発育が悪い。畑苗代は、根の発育がよく、活着力の強い健苗育成に適するが、水分不足や雑草の害などが出やすく、根が強く張って苗取りに手間がかかる。折衷苗代は、育苗の前半を水苗代にし、後半には畑状態にする。折衷苗代で、前半の出芽とそれに続く過程をビニルフィルムなどで保温するものを保温折衷苗代といい、当初油紙が用いられ、昭和30年代から寒冷地の早植えや暖地の早期栽培に普及され、近年の水稲作の安定・増収に顕著な貢献をした。苗代では、50日前後かけて6~8齢の苗を育てる。最近では、田植機による移植が、イネ栽培面積の95%を超し、苗代での育苗(成苗の手植え栽培)はほとんど消滅した。

[星川清親]

耕起・施肥

田植に先だって本田を耕起し、肥料を施し、代掻(しろか)きを行う。耕起は前年秋に行う場合を秋耕、春に行う場合を春耕というが、秋耕は耕した土を冬中さらしておくので、土質をよくし害虫を殺すなどの効果がある。耕起は12~15センチメートルの深さが望ましいが、最近のトラクターによるロータリー耕では、耕うんによる土の偏りはないものの、耕起が浅く、乾土効果が少なく、このためイネの生育に種々の障害が出ている。本田には、一般に10アール当り窒素10キログラム、リン酸およびカリをそれぞれ8キログラム程度施肥するが、このうち一部を耕起の際に基肥(もとごえ)として与え、残りは追肥(ついひ)として生育期間に分施する。この割合や量は、その土地の気象条件や土質、品種によって異なる。肥料には化学肥料のほかに、堆肥(たいひ)や、レンゲソウなどの緑肥をすき込むこともある。施肥後、代掻きを行う。代掻きは、田に水を入れてから耕起した土塊を砕き、田面を平らにして苗を植えやすくし、田からの漏水を防ぐなどの目的をもつ。昔は馬鍬(まぐわ)やレーキで、粗代(あらしろ)、中代(なかしろ)、植代(うえしろ)と3回行ったが、現在はロータリーティラーを1回かけるのが普通である。代掻き後、除草剤を散布し、数日して田植をする。第二次世界大戦後、日本では耕起や代掻き作業は小形耕うん機の普及により、ほとんど機械化され、昔の馬耕や牛耕がみられなくなった。現在はトラクターによる作業が主流となっている。

[星川清親]

田植

田植は、一般的には田植機によって行われる。育苗箱で育てられた苗はお互いに根が絡み合い、長方形のマット状になっている。これを田植機の爪(つめ)が掻き取って30センチメートルごとの列に、約15センチメートル間隔で植え付ける。普通、歩行式で一度に2列、または4列や6列ずつ植え付ける。乗用式で6列(6条)、8列、10列植えの機械もある。栽植密度は1株が4~5本で、1平方メートル当り20~25株となる。これは手植え時代の1株が2~4本、1平方メートル当り12~20株植えよりかなり密植となっているのが一般である。田植機移植によって、従来もっとも重労働であった田植作業が省力化され、農民の健康に利した一方、古来からの共同田植作業の慣習が消え、また田植に伴う農村生活の慣習が変化した。

 田植の時期は、気象や前作物の収穫期、灌漑(かんがい)水の事情、品種の早晩性の別、労力の都合などを考慮して決める。稲作期間の短い北海道や東北地方、また、秋の天候が悪く収穫を急がねばならない北陸地方などでは、極力早期に田植をする。しかし、移植後活着するのには日平均気温が稚苗で12℃以上、中苗では13~14℃以上であることが必要であり、これらの地方では5月上旬から中旬となる。関東地方以南の田植時期は5月下旬から6月上旬で、暖地ほど遅くなる。これらは、従前の手植え時代の田植よりも1か月ほど早まっている。暖地でも、秋の台風による被害や、秋落ちとよばれる生育障害などを避けるために、早生品種を使った早期栽培が普及してきている。

[星川清親]

活着

田植後、数日すると節の部分から新しく根が生え、苗は活着する。その後、成長につれてある一定の間隔で次々に節が増え、それに伴って葉数が増す。また、下位の各節から分げつが出、さらに分げつの基部からも第二次の分げつが出て、分げつ数は1株当り20~40本にまで増える。分げつがもっとも多くなるころを最高分げつ期といい、水田は一面に茂った青田となる。この期を過ぎると各茎(主茎と分げつ)は葉を増やすのをやめ、幼い穂を形成する。しかし遅くなって出現した分げつには穂ができず、のちに枯れる。これを無効分げつといい、全体の約2、3割ある。穂数は収量と関係が深いので、できるだけ無効分げつを少なくし、有効な分げつを多くするように栽培する。茎は約13~20個の詰まった節があり、開花期近くになると上位の4、5節の間が伸長して穂が外に現れ、草丈は1メートルほどになる。節間は中空で、力学的に折れにくい構造になっている。

[星川清親]

田植後の管理

田植後は田に水をたたえる。これは保温や養分の供給、雑草防除などの効果があるが、イネにとっては湿った畑程度の水分さえあれば順調に発育できる。むしろ過度の湛水は根を弱めたり、分げつ増加に害があるから、水は浅めにし、とくに最高分げつ期を過ぎたころには一時排水して、土面が亀裂(きれつ)するまで乾かす。これを土用干しとよんでいる。以前は田植後何回か中耕・除草を行ったが、最近は、中耕の効果がほとんどないことがわかったし、優れた除草剤の出現で雑草も防げるようになったので、中耕・除草作業はほとんど行われなくなった。

 なお、陸稲は真夏の日照りによる水不足に弱く、雑草も多いので、中耕・除草や敷き藁(わら)などの管理が必要である。

[星川清親]

直播き栽培

苗代から移植する方法をとらず、直接本田に種籾を播く直播き栽培(じかまきさいばい)は、田植の労力が省ける利点があり、耕起から収穫まで一貫した機械化・省力化が可能であるが、日本では鳥害や雑草害が多く、二毛作も困難なことなどから、特殊な地域でわずかに行われているにすぎず、総栽培面積の1%ほどである。しかし、経営の大規模機械化、生産費の低減を目的として、湛水直播き(水田に種籾を直に播く)や乾田(かんでん)直播き(畑状態のところへ籾を播いて、すこし生育してから水を入れて水田化する)などの新しい直播き技術が研究されつつある。外国では中国、タイ、インドシナ半島東部などは移植栽培が中心であるが、インドその他の熱帯では水田へのばら播き直播きが主であり、またアメリカやヨーロッパ諸国では大型機械や航空機によるばら播きや播種機による条(すじ)播きの直播きが行われている。ヨーロッパでも機械直播きが主であるが、輪作の都合から移植栽培も行われている。なお、陸稲は日本でもほとんどが直播き栽培で、関東地方では4月中旬から6月中旬ころに条播き、または点播きする。ムギの畝間に播くこともある。

[星川清親]

稔実

イネの穂の分化には、日長(昼間の長さ)と温度が関係する。イネは一般に短日植物で、夏至を過ぎるころから穂をつくり始める。しかし、日長に関係なく、高温にあうと穂を分化する性質の品種もある。東北や北海道では、夏至を過ぎてから穂を分化したのでは稔実期に寒さがきてしまう。そこで夏至前でも高温に感じて穂を分化する品種が栽培される。また暖地では早く高温になるので、高温には感じないで栄養成長を十分にしてから日長に感じる品種が栽培される。熱帯のイネはすべて短日感応型のものである。

 イネの穂は、原基が分化してから約30日間の幼穂(ようすい)形成期を葉鞘に包まれて発達し、いちばん上の葉(止葉(とめは))の葉鞘が膨らんだ穂ばらみ期を経て出穂(しゅっすい)する。出穂期は、早期栽培の早生品種では7月中旬、九州地方の晩生品種では9月下旬である。穂を大きく強く育てるために、出穂約25日前に追肥(穂肥(ほごえ))をする。

 イネの穂は複総状花序で、中心の穂軸は約10節からなり、各節から枝梗(しこう)が分かれ、それらはさらに枝分れして小穂をつける。小穂は1花からなり、花はそれぞれ下部から副包穎(えい)2、包穎2、護穎、内穎、鱗被(りんぴ)2、雄しべ6本、雌しべ1本とからなる。護穎と内穎はいわゆる籾殻(もみがら)で、護穎の先端が芒(のぎ)となる品種もある。雌しべの先端(柱頭)は二分し羽毛状。1穂の花数は品種や生育状態によって異なるが、50~200個ほどである。出穂した当日から次々と開花し、1穂の全花が咲き終えるのに3~5日を要す。開花は普通、午前10時から12時の間に限られ、1花の咲いている時間はわずかに90分間である。ほとんどが開花またはその直前に自家受粉し、開花日の夕刻までには受精を終える。

 受精後、雌しべの子房内部では胚乳組織が急速に形成されるとともに、茎葉部から炭水化物が穂に流れ込み始め、胚乳細胞中にデンプン粒として蓄積される。胚乳細胞の分裂増加は開花後9日目に終わり、15日目で見かけは完成した玄米と似た形に発達するが、デンプンの貯蔵は35日目まで増え続ける。イネのデンプンは、微小な多角形の結晶がたくさん集まって1粒となる複合デンプン粒である。籾は未熟のうちは、押しつぶすと乳状の胚乳デンプンが出るので乳熟期という。さらにデンプンが増すと、胚乳は中心部から充実して透明になり、籾は重くなって穂は垂れ下がる。籾殻が黄色になると黄熟期といい、開花後40日以上たち胚乳がすっかり充実すると完熟期となる。なお胚は、胚乳の基部にあって発達し、開花後15日目までに幼芽や幼根の原基が分化し、形態的にはほとんど完成する。出穂後20日もたつと田の水を引いて田面をしだいに乾かし、収穫作業のために人や機械が入れるようにする。

[星川清親]

イネの収穫

収穫の適期は完熟期に達したころであり、早期栽培や早生品種のように実りの季節が高温の場合は出穂後40日目ころ、晩生品種のように秋遅くなって完熟するものでは60日目ころである。収穫期が早すぎると、緑色の米(青米)や未熟米が多く混じり、品質を下げる。また遅れると、胴割米(どうわれまい)が多くなって精米時に砕ける原因となり、また粒の光沢を失ったり、籾が穂から落ちて収量が減るおそれがある。刈取り期は栽培条件によって異なるが、普通栽培の場合には、北海道、東北地方では9月下旬から10月上旬、南にいくほど遅く、九州では11月中旬から下旬に及ぶ。日本では従来、鎌(かま)で株を地際から刈って収穫し、束にして稲架(はさ)に架けて乾燥した。東南アジアでは穂だけを摘み取る方法が広く行われている。手刈りは、田植とともに多くの労力を要する作業である。1960年代後半に刈取結束機バインダー)が使われるようになり、また、1970年代以降は刈取りと同時に脱穀する自脱式小型コンバインが普及した。手刈りと比べ、コンバインは約50倍の作業能率をもつ。

 手刈りやバインダーで刈り取った株は、地面に広げたり、稲架に架けたりして乾燥させる。稲架は棒架けや横木を渡して架けるなど地方により独特の形式があり、秋の田園の風物詩となる。この乾燥により、刈取り期に20~25%あった籾の水分は約15%に減る。次に穂から籾をこき落とす稲こき、すなわち脱穀を行う。脱穀には動力式回転脱穀機が用いられる。昭和初期以前の脱穀機は足踏み式であり、さらに明治中期以前は千歯扱(せんばこき)を用いた。東南アジアで栽培されるインド型のイネは日本型に比べると脱穀されやすいので、刈った穂を踏んで脱穀している地域もある。

 脱穀した籾は天日に干したり、火力乾燥によってさらに乾燥させる。この過程を調整という。火力乾燥の場合、急激に行うと玄米の胴割れをおこすので、熱風の温度や処理時間に注意を払う。乾燥後、籾摺(もみすり)機で籾殻を除き、籾の重量の約7、8割の玄米を得る。日本では出荷は玄米で行われ、60キログラムを1俵として袋(以前は米俵、現在では紙袋や合成樹脂製)に詰める。最近は、各地の農村にライス・センターやカントリーエレベーター(貯蔵もする)などの大形共同乾燥施設が建設され、農家は予備乾燥して脱穀した籾、あるいはコンバイン脱穀の生籾を搬入し、乾燥以降の過程を委任することが増えている。なお、東南アジアなどでは、生産者は籾のままで出荷する。このため、日本では生産量を玄米の重量で表すのに対して、外国では籾のままの重量で示す。

 イネを1年に2回栽培することを二期作という。日本でも暖かい太平洋岸(四国南部や沖縄)で二期作が可能である。第一期作は、3月中旬から4月上旬に種播きし、7月上旬から8月上旬に収穫、一方、苗代に6月下旬から7月上旬に種播きして苗を育てておき、第一期作の収穫後ただちに田植をして、11月上旬から中旬に収穫する。収量は第一期作のほうが多い。台湾や中国大陸南部でも二期作が行われる所がある。熱帯では、一般的に5月から10月ころまでの雨期にイネを育て、11月から翌年1~2月ごろまでの乾期に収穫するが、一年中適当な雨量がある所では二期作も行われる。

[星川清親]

気象障害と病害虫・雑草

幼穂形成期から出穂、開花期までの環境条件は収量に大きな影響を及ぼす。出穂の25日前の小花の分化期や、約10日前の減数分裂期(花粉の形成期)に低温にあうと、花粉の能力不全で受精できず、実りが得られない。これがいわゆる障害型冷害である。冷害にはこのような機構によっておこるもののほかに、遅延型冷害とよばれるものがある。これは、生育期間に20℃以下の低温が続き、また日照不足となって生育が遅れ、出穂、開花とそれに続く稔実の期間が秋冷期になってしまうためにおこる。冷害により稔実皆無の場合は俗に青立(あおだ)ちとよばれ、穂はいつまでも緑色のまま立っている。昔から東北地方などではしばしば冷害にみまわれ、凶作となり、大飢饉(ききん)をもたらした。明治以降の日本での稲作技術の研究は、冷害克服技術の確立に主力を注いできたといっても過言ではない。その結果、冷害を防ぐ栽培技術が発達し、早生や耐冷性の品種が育成された。この結果、好天にも恵まれて、1953年(昭和28)の冷害以降は、大きな冷害もなく、冷害は技術によって克服されたかにみえた。しかし、気象がふたたび寒冷化したといわれる近年は、1976年の冷害をはじめ、1980~1982年と続けて大きな冷害がおきた。これは異常な低温だけでなく、昭和30年代、40年代と続いた好天に慣れてしまった安易な栽培法が被害を大きくしたためと指摘されている。冷害のほか、出穂から完熟までの実りの期間は、二百十日前後の台風や洪水による被害がある。開花期に強風にあうと受精ができず白穂(しらほ)となったり、籾に傷がついて褐変し、品質が下がる。また茎が倒伏すると実りが悪くなり、洪水により泥水につかると穂が腐ったりする。完熟期ころに倒伏して長期間穂が湿った状態にあると、そのまま籾が発芽(穂(ほ)発芽)してしまうことがある。病害虫もこの期間に多い。また、これら外的環境による害のほかに、出穂前まではよく育っていたのに、稔実期に生育が衰え、収量が少ないことがあり、これを秋落ちと称する。秋落ちは田の土壌中の鉄、マンガンなど微量元素が長い間の湛水で流脱して欠乏することが主因らしく、いわゆる老朽化水田でみられる。

 イネの病気は日本では50種以上あり、重要なものは、いもち病、紋枯(もんがれ)病、ごま葉枯(はがれ)病、白葉枯(しらはがれ)病、小粒菌核(しょうりゅうきんかく)病、縞葉枯(しまはがれ)病、萎縮(いしゅく)病、黒穂(くろほ)病などである。なかでも、いもち病は生育全期に発生し被害が大きく、空気伝染し、夏が低温、多雨、日照不足の年に大発生し、また晩植、密植、窒素過多のイネに多発する。

 害虫には120種以上が知られ、全国的にはニカメイチュウ、寒地ではイネドロオイムシイネハモグリバエ、暖地ではウンカ類やサンカメイチュウなどが重要な害虫である。メイチュウ類は幼虫が茎に食入して枯らし、とくに被害が大きい。ウンカ類のトビイロウンカは幼虫、成虫ともにイネの汁液を吸い、大発生したときには数日で田を枯らす。ヒメトビウンカ、ツマグロヨコバイは縞葉枯病や萎縮病などのウイルス病の媒介もする。イネの病気も害虫も現在ではほとんど薬剤で防除する。

 水田に生える雑草には、コナギ、キカシグサ、タマガヤツリ、カヤツリグサ、アブノメ、マツバイ、タイヌビエ、アゼナなどがある。なかでもタイヌビエはイネ科の一年草で、生活型がイネとほとんど同じであるから、人間がイネのために与えたよい環境をそのまま横取りして繁殖し、イネの生育を害する。また、収穫時にはその種子が米に混入して米の品質を下げる。熱帯から温帯にかけて世界中に分布し、世界各地の稲作の最大の雑草となっている。以前はヒエ(タイヌビエ)抜きが夏の仕事の一つとして重要なものであったが、最近はヒエを選択的に殺す除草剤ができ、またその処理技術も発達し、ヒエの害を除くことができるようになった。またヒエの幼植物は水に没すると枯れるので、これを利用して田植後まもないころに水田の水を深くして、ヒエを防ぐ方法も有効である。アメリカのように直播きの水田ではヒエその他の雑草の害が大きいので、薬剤による除草だけでなく、田の水深を10~15センチメートルにして栽培する方法が広くとられている。

 陸稲栽培ではメヒシバなど畑地雑草が多く、とくに株間の雑草は除草剤による完全防除がむずかしいので、ポリエチレンフィルムで畝間を覆うマルチ栽培が最近多くみられるようになった。

[星川清親]

品質と用途

日本で生産された米は、すべて農産物規格規定によって品質が評価され、一般飯米用の米は1~3等に格づけされる。各等級ごとに容積重と整粒歩合の最低限値、また、水分や被害粒、死米、着色粒、異種穀粒などの混入許容の最高限度が決められている。これらの等級のほかに、需要の多い食味がよいものを銘柄米として買入価格を高くしている。

 日本では総生産量の95%以上を飯や粥(かゆ)にして主食とする。一般には玄米は搗(つ)いて七分搗米(しちぶづきまい)や白米とする。この作業を精白または搗精(とうせい)という。搗精は昔は臼(うす)に入れて杵(きね)で搗いたが、現在では動力精米機で行っている。精白程度が強いほどタンパク質や脂肪、ビタミン類などが減るが、消化はよくなる。最近では、胚をつけたまま皮部を除き、栄養的には白米よりもよい胚芽米も搗精されている。

 近年、タンパク質や脂肪の多い副食物を多くとる食事に変わってきたため、米の消費は減少し、第二次世界大戦前は1年間に1人1石(150キログラム)を消費するといわれたが、1962年(昭和37)をピークに減少し、2016年(平成28)には54キログラム程度となっている。従来は、一部輸入米に頼ったが、消費量の漸減も手伝って、1967年(昭和42)の大豊作以来、生産過剰の状態にある。

 インドを中心とした熱帯・亜熱帯地域や欧米では粘り気の少ないインド型の米が好まれ、多くは主食とされる。欧米では調理して副食ともなるが、イタリアの米作地帯では主食にもされる。一方、タイやインドシナ半島北部では糯米(もちごめ)を蒸した強飯(こわめし)を主食としている。

 日本でも古代は強飯をかわらけやシイの葉に盛って食べたらしいが、しだいに粳米の飯に変わり、現在では祝い事のときに赤飯に炊いたり、餅(もち)に搗いたりして食べる風習として残されている。また、特殊な品種として、神事に使われる赤米(あかごめ)や、古米の香りづけに利用される香米(かおりまい)が、各地で小規模に栽培されている。

 このほか全生産量の数%が日本酒、みそ、しょうゆ、米酢(こめす)などの醸造原料とされる。清酒用には発酵に適した酒米(さかまい)とよばれる粳米品種群がある。なお、中国では糯米からも酒をつくる。日本では糯米を醸造してみりんをつくる。屑米(くずまい)はビールの主要な補助原料にされる。製粉した米粉(こめこ)は菓子やビーフン、糊(のり)などに用いる。なまの粳米からは上新粉(じょうしんこ)や上用粉(じょうようこ)、糯米からは白玉粉(しらたまこ)や求肥粉(ぎゅうひこ)が、またα(アルファ)化した糯米からは寒梅粉や微塵粉(みじんこ)、道明寺粉(どうみょうじこ)などがつくられる。玄米の粉は玄米パンの原料となる。

 精米時に出る糠(ぬか)は、飼料や肥料とするほか、ぬかみそ漬けに使われる。また上質の油がとれ、食用、工業用とされる。

 藁(わら)は、俵、かます、莚(むしろ)、縄、草履(ぞうり)、畳の床、クッションの詰め物、納豆のつとなど、日本人の伝統的な生活の多方面に利用され、農業においても、飼料に混ぜたり、堆肥(たいひ)としたり、畜舎や畑の敷き藁と広く利用する。注連飾(しめかざ)りや民芸品の材料にもなる。最近では、穀物の飼料化が進むなかで、イネの飼料としての利用も研究されている。

[星川清親]

生産

世界の稲作(水稲)総面積(2016)は1億5981万ヘクタール、うちアジアが1億4049万ヘクタールを占める。生産量は籾のままで約7億4096万トン(2016)で、年々増大している(1950年ころは1億7000万トン)。国別では中国、インドが多く、ついでインドネシア、バングラデシュ、ベトナム、ミャンマー、タイと続き、これら東南アジアの地域を中心に、アジアで世界の90%以上の米を生産している。そのほか、ヨーロッパは0.57%(422万トン)、アフリカは4.38%(3250万トン)、アメリカ合衆国は1.37%(1016万トン)である。稲作の北限は、日本の北海道、中国の東北部、ロシア南部、アメリカのカリフォルニア州などである。

 日本では、10アール当りの水稲収量は明治初期は玄米で190キログラム前後だったが、1990年代以降では約500キログラムで、約2.6倍となった。総生産量は、明治初期500万トン以下であったが、1950年代なかばには1000万トン前後の生産能力をもつにいたった。1967年(昭和42)には1445万トンという史上最高の記録をたてたが、米の余剰問題から1970年に生産調整が始まり、第二次世界大戦後、徐々に増加していた栽培面積が初めて減少した。日本全国で栽培されているが、主産地は北海道、新潟や東北地方の各県などである。なお、陸稲は10アール当り収量が200キログラムほどで、栽培面積はイネ全体の作付面積の0.06%ほど、生産量は0.03%程度を占めるにすぎない。

[星川清親]

栽培品種

現在、日本で実用的に栽培されているイネの品種は、各都道府県がそれぞれの地域に適した品種を奨励品種に指定して普及に努めているものや、農家に小規模に栽培されているものなどを含め、数百種以上ある。また、現在では実用栽培されていないが、試験研究機関に保存栽培されているものを合計すると、日本だけで数千品種にのぼる。さらに、品種改良によって新しい品種がつくりだされ、それらは徐々に従来の品種と交替してゆく。昭和初期ころまでは、在来品種やその純系分離品種が主であって、神力(しんりき)、愛国(あいこく)、旭(あさひ)、亀ノ尾(かめのお)、坊主(ぼうず)などの品種が有名であった。昭和中期から国の研究機関によって育成された陸羽(りくう)132号や農林1号などの品種が普及し始め、近年ではコシヒカリ、ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまち、ななつぼし、はえぬき、キヌヒカリ、まっしぐら、あさひの夢、ゆめぴりかなどの品種が多く栽培されている。とくに最近では、食味や品質のよい品種が好まれ、その代表的なコシヒカリは総栽培面積の35.6%と、1品種で日本のイネ栽培面積の4割弱を占めている(2017)。中国やインドなどにもそれぞれ数千品種があり、全世界では数万の品種があるものと推定されている。

[星川清親]

イネと人類

イネは、とくにアジア諸地域において古くから人々の生活に大きな意味を占めてきた。中国では神農によって紀元前2800年ごろに制定された儀式で播(ま)かれた五穀(米、麦、豆、アワ、キビ)のうち、イネだけが皇帝自身によって播かれなければならなかったという。この伝説はかつてイネの中国起源説の一理由と考えられ、河南省仰韶(ぎょうしょう)の遺跡からは、前3000~前2000年の間のものと推定される籾(もみ)が出土している。インドにおいてもイネに相当する語が『ベーダ』の賛歌のなかにみられ、前2300年ごろと推定されるビハール州チランド出土の炭化米をはじめ、ガンジス川流域を中心として古代の出土米が多数発見されている。タイのスピリット・ケーブやノンノクターの遺跡からはさらに古い出土米が発見され、ノンノクターの籾粒圧痕(あっこん)は、異論も多いが、前3500年あるいはそれ以前のものと推定されている。

 東南アジアは現在もなお世界の稲作の中心を占めているが、そこでは平地での水稲(すいとう)(みずほ)耕作ばかりでなく、山地の焼畑においても陸稲(りくとう)(おかぼ)が栽培されて焼畑初年次作物として卓越している。そして稲作とそれを可能にさせた風土条件(モンスーンによる乾雨2期の交代および高温多湿)が、人々の生活を律するものとして、社会生活や数々の儀礼のうえで重要な役割を果たし、いわゆる稲作文化を形成している。また東南アジアの人々にとって米は単なる主食ではなく、たとえばビルマ(ミャンマー)では食事はすなわち米飯をとることを意味し、米を伴わない朝食は食事の回数に数えられない。この考え方には、米が美味であり、しかも栄養価が高いということも少なからず原因している。中国やインドなどの米と小麦を選択できる地域でも一般に米食が好まれ、したがって米価のほうが高くなるという。このことは米の優れた性質を物語るものであるが、そのために水田の所有が社会的権威に結び付き、さらに米が政治的、社会的基準に用いられることとなり、農業がイネの単作にのみ集中しすぎる現象をも生み出している。

 こうした稲作文化地帯の東端を占めている日本でも、「めし」が米を摂(と)る意味と同じであったことは、東南アジアと同様である。日本や東南アジアでは、イネの豊かな実りを目ざしてさまざまな儀礼や祭りが行われる。日本の場合、大正月・小正月に鍬(くわ)入れや田打ちなどの予祝的行事が行われ、実際の農作業の模倣などもなされる。そして、播種(はしゅ)や田植のときには、田の神の降臨を仰ぐ儀礼が行われる。これに比して東南アジアでは、土地の耕起時、すなわち雨期の始まる前に行われる儀礼が特徴的である。かつては、ビルマやタイ、カンボジアの王室では、王が農耕の開始前に自らの御料地を犂(すき)で耕す「親耕(しんこう)」の儀礼が行われ、天を表す王と母なる大地との結合を象徴するとともに、豊作の前兆とされた。また山地民にあっても同様で、たとえばトンキン高地の黒タイの人々は、土地の神に供え物をしたあと、若い男女が両側に分かれ、竿(さお)に下げられた竹の輪を通してまりを投げ合ったり、綱引きや歌の交歓を行った。これらは農耕の開始をしるしづけると同時に、競争の結果により年占(としうら)を、また象徴的な男女間の結合により豊穣(ほうじょう)の観念を表す。さらに東南アジアの収穫儀礼には、「稲魂(いなだま)」の観念が顕著である。稲魂はその逃亡神話に語られているように、移り気で不安定なものとされ、したがって、よい収穫を得るため、さまざまな供え物がなされて丁重に取り扱われる。タイでは「稲の母」とよばれ、収穫、脱穀ののちに接待の儀礼が行われる。またその女神を表す藁(わら)人形と米粒は、米倉にしまわれて翌年取り出され、他の籾と混ぜられて播種される。島嶼(とうしょ)部でも、稲魂を表す親稲や初穂が家の中や米倉に迎えられ、神霊や祖先に供えられて、食い初めの儀が家族や村落の間で行われる。日本でも古くから宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)(『古事記』)のように、稲魂の観念や田の神を迎え入れて祀(まつ)る収穫儀礼がみられる。

[田村克己]

イネの民俗

イネはかつて菩薩(ぼさつ)とかお米菩薩とよばれていたように、呪(じゅ)的、霊的な力が宿る穀物と考えられていた。そのため、古代よりイネをめぐってさまざまな神話や伝説が生み出され、イネの豊穣を祈願したり感謝する儀礼が盛んに行われてきた。

 日本の穀物起源神話には二つの型があるが、その一つは死体化生(けしょう)モチーフの神話で、穀物が神の死体から発生したことが説明されている。『古事記』によると、イネはムギやアワ、ダイズ、アズキなどといっしよに、素戔嗚命(すさのおのみこと)に殺された女神大気都比売(おおげつひめ)の死体から生じたと伝えられており、『日本書紀』の一書には、イネやムギ、アワ、ヒエ、ダイズ、アズキが、月神月読命(つくよみのみこと)に殺された保食神(うけもちのかみ)の死体から生じたと記録されている。もう一つは穂落とし神モチーフの神話で、これによるとイネは鳥によって地上にもたらされたと伝えられ、死体化生モチーフの神話が五穀の起源を説明しているのに対し、イネの起源しか取り上げていない。またその記録は、ほとんどが近世の記録や民間伝承に認められているにすぎず、もっとも古いものは『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』(13世紀後半)に、垂仁(すいにん)天皇28年秋、ツルが奇跡の稲穂をくわえてきたとある。また鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』にも、報恩モチーフを織りまぜたイネの起源伝説があり、このような鳥がイネを地上にもたらしたという伝承は、東北地方から奄美(あまみ)、沖縄の島々にまで広く分布している。なお、イネだけにこうした伝承が伴っているのは、とりわけイネが貴重な穀物と考えられていたからで、このほか、イネは弘法(こうぼう)大師が海のかなたからとってこられたとか、作神(さくがみ)様が外国から持ってこられたという伝承もあり、沖縄などでは聖なる国ニライカナイからもたらされたと伝えられている。

 『古事記』に出てくる宇迦之御魂神や、『日本書紀』の一書に登場する倉稲魂(うかのみたま)は、どのような神なのかはっきりと説明されていないが、稲の精霊のことと考えられていたらしく、『延喜式(えんぎしき)』の大殿祭(おおとのほがい)(古代からの宮中の祭事で、宮殿の火災やそのほかの災難を祓(はら)う)の祝詞(のりと)では、宇賀能美多麻(うかのみたま)が稲霊として解説され、『神道五部書(しんとうごぶしょ)』(13世紀ごろ)によれば、豊宇気姫(とようけひめ)や豊宇可能売命(とようかのめのみこと)という女神も稲霊とされている。『摂津国風土記(せっつのくにふどき)』逸文に、稲倉山という名のおこりは、止与可乃売神(とようかのめのかみ)が山の中に住んで飯を盛ったからだという地名伝説がある。石川県能登(のと)半島の農村の一部では、「あえのこと」とよばれる、春から秋にかけて水田を守護していた田の神を供応するイネの収穫儀礼が現在でも行われているが、この田の神は稲霊の一種で、このような擬人化は東南アジアに広くみられる稲霊信仰とよく似ている。なお、この田の神は男性とも女性とも伝えられているが、古代日本では女性と考えられていたらしい。

 古くから宮廷で行われている新嘗祭(にいなめのまつり)は、その年の新穀を神に捧(ささ)げ、これを天皇も共食するというイネの祭りである。なかでもイネの栽培に直接携わる農民の生活は、イネの栽培過程にあわせて営まれ、彼らの間にはイネの生育を守護する田の神の信仰が広くみられる。日本の稲作儀礼の多くは、こうした田の神の信仰に基づいている。

 民間信仰によると、田の神は春の種播きが近づくと天または山、家から田に訪れ、そこに滞在してイネの生育を見守り、秋の収穫が終わるとまた帰られるという。イネの栽培はこうした田の神の去来と呼応して行われているが、1年の初めにあたる正月にはその年のイネの豊作を予祝し、庭の一部を苗代に見立てて、そこに豆の皮をまき散らす所作を種播きとよぶほか、稲藁(いねわら)や葦(あし)などを束ねて、これを雪の上に植える行為を田植とよんでいる。いずれもイネの栽培過程を模擬した行為であるが、種播きのころになると苗代の一部に棒が立てられる。この棒は田の神の依代(よりしろ)で、「田の神様の腰掛」などとよばれ、これが枯れると家族に不吉なことがおこると伝えられている。また田植にも田の神の祭りが行われ、田植前の祭りはサオリ、田植後のそれはサノボリとよばれ、いずれも田または家で木の葉を敷いた上に3把(ば)の苗や餅(もち)、昆布、酒などを供え、田の神を祀る。サオリのとき、1枚の田を植え終わると田の神が去られるといって、種播きのときと同じように柴(しば)を折って畦(あぜ)に立て、そこで田の神に休んでもらうと伝える土地もある。収穫の祭りは、くんちとか十日夜(とおかんや)、案山子上(かかしあ)げ、亥の子(いのこ)、丑の日(うしのひ)などとよばれるが、いずれも田の神の祭りで、神棚とか床の間、土間、納戸(なんど)などに、稲束とか大根、餅などを供えて田の神を祀る。北九州の農村では、収穫が終わると、田に刈り残しておいた数株の稲を農家の主人が刈り取って、これを束にして家に持ち帰り、土間に臼を置いて祭壇をつくり、その上に稲束と赤飯などを供えて田の神を祀る。最後に刈り取った稲束の中に田の神が宿るという考えがうかがわれるが、こうした習俗は東南アジアの稲栽培民の間にも認められる。

 このように、日本のイネの祭りは田の神を対象にして行われているが、田の神の観念は長い歳月の間にほかの民間の神々と習合し、田の神は恵比須(えびす)とか大黒(だいこく)、地神(じがみ)、歳神(としがみ)などと考えられるようになった。しかしどの神もイネの豊作をもたらし、農民の生活を豊かにする働きをもっている点で共通しており、田の神は本来祖霊ではなかったかという仮説が唱えられているが、田の神には稲霊としての性格が認められている。

 いまでも家を建てる棟上げのときに、棟の上から餅やお金をまいたり、節分に豆をまいたりするが、これとよく似たものに「ウチマキ」といって、邪気を払うために米をまき散らす風習がある。精霊が宿ると信じられたイネには、邪気を退ける神秘的な力があると考えられ、『延喜式』の大殿祭のなかに「米を屋中に散らす」とあるのも、このウチマキのことであろう。宮中の儀式を記した『貞観儀式(じょうがんぎしき)』(871~872)にも、大殿祭に米や酒がまき散らされたと記録されており、この風習は『うつほ物語』や『源氏物語』『今昔物語』『栄花物語』などにも散見される。『日向国(ひゅうがのくに)風土記』逸文にも、高天原(たかまがはら)から降(くだ)った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高千穂で米をまいたところ周囲の闇(やみ)が晴れて明るくなったとある。民間伝承によると、東北地方の山村などでは、かつて「振り米」といって病人の枕元(まくらもと)で竹筒に入れた米を振ってみせたという話が伝えられている。この風習も、イネに宿る呪的、霊的な力によって病気が治るという俗信に根ざしたものであろう。

[伊藤幹治]

『大林太良著『稲作の神話』(1973・弘文堂)』『星川清親著『米・イネからご飯まで』(1979・柴田書店)』『菅洋著『稲――品種改良の系譜』(1998・法政大学出版局)』『大森志郎著『米の話』(潮新書)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イネ」の意味・わかりやすい解説

イネ(稲)
イネ
Oryza sativa

イネ科の一年草。日本をはじめアジア諸国で広く栽培されている穀物で,全世界の栽培面積はムギ類に次いで第2位といわれ,また世界総人口の半分はを主食にしている。原産地については諸説があり正確には不明だが,インドまたは東南アジアの一角とされ,前7000~前5000年にすでに中国で栽培されていたという。草丈は 1m内外に達し,根もとで盛んに枝分かれする。葉は広い線形で先端はしだいに細まり,長さ約 30cm。基部は葉鞘となって長く茎をいだく。8~9月にかけて,茎の先に円錐花序を出し,分枝して多数の小穂をつける。小穂は 1花からなり,外花穎と内花穎はいずれも船形で,いわゆる籾殻(→)となる。芒(のぎ)は品種により長いものや欠くものもある。6本のおしべと 1本のめしべがあり,熟して穎に包まれたまま穎果(→玄米)を生じる。現在世界で栽培されているイネは大別して,実が細長く粘り気の少ないインド型米(→インディカ米 O.sativa var. indica。いわゆる外来型)と,実が短い楕円形でつやがあり粘り気の多い日本型米(→ジャポニカ米 O.sativa var. japonica)とがあり,日本では日本型が,日本以外ではインド型が通常栽培される。日本型のイネをデンプンの性質によって大別すると,粘り気が多くてにするもち米と,普通の粳米(うるちまい)とがある。また水田に適した水稲と,畑作に適した陸稲(おかぼ)があるが,陸稲は全国稲作面積のわずか 0.4%程度である。茎を乾燥させたものがわらで,縄,むしろ,その他のわら細工をつくる。(→稲作文化

イネ
Ine

[生]?
[没]726以後
イギリス,アングロ・サクソン時代のウェセックス王 (在位 688~726) 。南西部に領土を拡大,王国の基礎を固めた。この王の発布した法典は初期イギリス史研究上最も重要な史料の一つ。

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