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保良宮 ほらのみや

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

保良宮
ほらのみや

奈良時代,近江国滋賀郡石山 (大津市内) に一時的におかれた皇宮天平宝字3 (759) 年造営が始り,同5年平城京を改作するまで,行幸があって,淳仁天皇はしばらくここで政務をとった。平城京に対して,北京とも呼ぶ。一時に2~3ヵ所の都を営む唐の陪都の制にならったものといわれる。同6年淳仁天皇と孝謙上皇とが不和になると平城京に還幸,保良宮に関する正史の記事も跡を絶った。

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百科事典マイペディアの解説

保良宮【ほらのみや】

近江国滋賀郡に置かれた宮都。759年に〈保良宮〉造営の担当者が任じられ,761年1月には〈保良京〉に官人7名らを派遣し,10月には遷都のために稲の支給があり,さらに孝謙太上(だいじょう)天皇と淳仁天皇が行幸して,平城京の改作のためしばらく保良宮に遷都することが宣せられている。
→関連項目古津

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世界大百科事典 第2版の解説

ほらのみや【保良宮】

奈良時代に近江国にあった宮都の一つ。所在地は不明だが,現在の滋賀県大津市国分北大路,粟津付近と推定される。時の権力者藤原仲麻呂が,唐の5京や天武天皇以来の複都主義にもとづき平城京の陪都として造営を企図したもので,政敵橘諸兄の主唱した恭仁(くに)京に対抗し,藤原氏と関係の深い近江国に新宮を造営して孝謙太上天皇と淳仁天皇を手中にせんとしたと考えられる。759年(天平宝字3)11月に造営担当者が任命されてこの計画は始動し,761年10月にはこれを北京(ほくきよう)とし,近接の滋賀・栗太両郡を畿県としている。

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大辞林 第三版の解説

ほらのみや【保良宮】

奈良時代末期、藤原仲麻呂によって近江国滋賀郡(現在の大津市)石山付近に設けられた離宮。平城京との位置関係から北京とも呼ばれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

保良宮
ほらのみや

奈良時代、淳仁(じゅんにん)天皇の臨時の宮居。宮跡は、大津市石山国分町一帯。平城(へいじょう)宮を改作するため、759年(天平宝字3)から保良宮の造営を始め、761年10月、孝謙(こうけん)上皇らと移御し、北京と名づけた。唐の北京太原(たいげん)を模した陪都(ばいと)で、宮に近い近江(おうみ)国志賀(しが)・栗太(くるもと)両郡を畿県(きけん)と称して、調庸(ちょうよう)を減免した。恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂(なかまろ))の主導で、藤原氏が勢力を伸ばしていた平城の後背地に設けられたもので、新羅(しらぎ)出兵計画に伴う軍事的な危急に備えた遷居といえる。すぐ南方では石山寺の建立が進行中であった。ところが上皇とその看病にあたった道鏡(どうきょう)が親密となり、天皇と上皇の反目が原因となって、762年5月にわかに平城に還幸し、宮は廃止された。[八木 充]

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