日本歴史地名大系 「保良宮」の解説
保良宮
ほらのみや
近江国には伝承上の
「続日本紀」天平宝字三年(七五九)一一月一六日条には、造宮輔中臣丸連張弓・越前員外介長野連君足ら七名の官人を遣わして保良宮を造らせたとあり、造宮担当者の任命がなされている。これより前天平勝宝九年(七五七)七月の橘奈良麻呂の変を鎮圧して反対派を一掃した藤原仲麻呂は、翌天平宝字二年八月右大臣に就任して主導権を確立、矢継早に新政策を打出しており、当宮の造営もその一翼を担うものであった。造営は順調に進み、同五年一月二一日には司門衛督粟田朝臣奈勢麻呂・礼部少輔藤原朝臣田麻呂らと官人七人を「保良京」に遣わして諸司史生以上に宅地を班給している。工事が最終局面に入ったことを示すのであろう。同年一〇月一一日には太師以下皇親・高官に稲の賜給があり、保良への遷都のためとしており、同一三日には上皇・天皇が保良宮に行幸し、そのまま滞在している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報