明治前期における政府の殖産興業政策の一つ。明治政府の工業化政策は,1873年の内務省設置以後,大きく変化した。財政難や貿易収支の悪化によって,工部省の直営事業に対する批判が高まり,民業の育成が緊急の課題として強調されるようになったからである。試験場・学校の経営,民業助成などに当たる勧業寮(1877年に勧農局と改称)や,各種博覧会事務局が内務省内に設けられ,77年秋には第1回内国勧業博覧会が上野公園で開催された。また78年にはパリ万国博覧会への出品と掛官の派遣が行われ,フランスの物産コンクールを見聞する機会に恵まれた。その結果翌79年には,内務,大蔵両省の主催によって,製茶共進会(9~10月)と生糸繭共進会(11月)が横浜で,翌80年には綿糖共進会(2~4月)が大阪で開催されることになった。茶,生糸・繭は輸出品の双へきであり,綿,砂糖は輸入品の双へきであった。当時,国内各地では地方制度の整備や海外貿易の発展によって,在来産業がいっせいに勃興し始めていた。そのためこの共進会に続いて,府県や町村で,米麦,雑穀,糸繭,茶,織物,牛馬,水産物,林産物,絵画などの共進会が,続々開催された。それらはいずれも技術の向上と産業の発展に大きく寄与したが,他方,農民の実業志向を刺激し,民権運動の退潮や政治意識の停滞をもたらすことになった。
執筆者:山本 弘文
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内国勧業博覧会と並ぶ明治政府の勧業政策。1880年代を中心に、政府・地方官庁が優秀農工産物を一般から出品させて展示、生産技術の交流、向上を図った。1879年(明治12)9月の製茶共進会(横浜)と11月の生糸繭(まゆ)共進会(横浜)が初例。地方農工産物について開催されたものであるが、とくに輸出奨励の観点から生糸類と製茶、また輸入防遏(ぼうあつ)の観点から綿、砂糖、織物の共進会が重要視された。
[海野福寿]
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…全国博覧会はその後開かれず,地方博覧会が各地で盛んとなった。地方博覧会としては,1879年9月横浜で開かれた製茶共進会(内務省勧農,商務両局主宰)が最初である。共進会(中央政府によるものと地方官庁によるものとがある)はその後盛んに開かれたが,重要なものは,80年の綿糖共進会(大阪),85年の繭糸織物陶漆器に関する共進会(東京)である。…
…はじめ1903年(光緒29)日本に私費留学し,成城学校速成中学在学中,変法により中国を改革する考えをすて,中国同盟会に加入。旧制六高理科に進んだが退学して革命運動に専念,反清と民権革命を鼓吹する雑誌《四川》を編纂し,また四川哥老会の有力者だった兄の関係で,哥老会,孝友会,三合会などの会党を統一した共進会を組織したりした。11年(宣統3)7月帰郷後四川の革命に奔走した。…
※「共進会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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