内田村(読み)うちだむら

日本歴史地名大系 「内田村」の解説

内田村
うちだむら

[現在地名]佐倉市内田

坂戸さかど村の南に位置。中世は白井しらい塩古しおこ郷のうち。現神崎こうざき神宮じんぐう寺蔵の「大般若経」巻五二〇の奥書に、貞治二年(一三六三)七月二五日付で塩古郷内として「内田弥勒寺」とみえ、同寺の承隆が「大般若経」六〇〇巻のうち三〇〇余巻を書写している。弥勒寺は現存しないが妙宣みようせん寺がその後身で、弥富原氏の入部後に改宗されたと考えられる。同寺には応永二六年(一四一九)四月一〇日の紀年銘をもつ武蔵型板碑が残る。「本土寺過去帳」には文明一三年(一四八一)一月七日に没した粟生殿母妙正比丘や永正一二年(一五一五)閏二月二六日に没した粟生小五郎法春がみえ、粟生氏は当地に居住した弥富原氏の有力家臣とされる。


内田村
うちだむら

[現在地名]豊中市さくらの町一―五丁目・上野西うえのにし三―四丁目・上野坂うえのさか一―二丁目・宮山みややま町一―三丁目・柴原しばはら町三丁目・同五丁目・緑丘みどりがおか一―三丁目・内田など

桜井さくらい谷六ヵ村の一で、天保郷帳に「桜井谷内田村」とある。桜井谷のほぼ中央に位置し、千里せんり川の谷筋に集落(現桜の町三―四丁目)が展開する。中世は垂水西たるみのにし牧桜井郷に属し、永享元年(一四二九)八月日の春日社神供料所摂州桜井郷本新田畠帳(今西家文書)の耕作関係者の地名を示す肩書に「内田」がある。


内田村
うちだむら

[現在地名]武蔵町内田

東は伊予灘に面し、北は池之内いけのうち村、西は手野ての村など、南は成吉なりよし村など。東流する内田川左岸に集落が展開するが水田は少なく、西部は丘陵地帯。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高五〇九石余、家数六三、うち百姓二二、名子家・牛家・にわや三六、人数九六、うち百姓二二・名子七、牛二三・馬一。正保郷帳では武蔵郷に属し、田方三一二石余・畑方九九石余で、茅山・柴山・新田があり、日損所。天保郷帳では高六二八石余。


内田村
うちだむら

[現在地名]武雄市東川登町ひがしかわのぼりまち永野ながの字内田

現東川登町の北部、南は六角ろつかく川(潮見しおみ川)を境とする。

橘薩摩一族所領支配注文(小鹿島文書)に「有智田村 大夫房盛俊 上課、大進房俊治 中上課、六郎入道 下課、又四郎入道明連 下」とある。建武三年(一三三六)の文書と推定されている。

この地域は、平安時代後期は長島ながしま(蓮華王院領)、鎌倉時代には長島庄惣地頭橘薩摩氏の所領となり、室町時代は塚崎つかざき庄に分轄され塚崎後藤氏の領地となった。


内田村
うちだむら

[現在地名]岡山市南中央町みなみちゆうおうちよう京町きようまち清輝橋せいきばし一―四丁目・岡町おかまち奥田おくだ一丁目・岡南町こうなんちよう一丁目

東は西にし川を限り、城下小原おはら町に対する。西と北は大供だいく村、南は奥内おくうち村。寛永備前国絵図に内田町とみえ、高四三〇石余。「備陽記」によると田畑二四町五反余、家数二五・人数一三七。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高九四四石余、蔵入。田高四一八石余・畑高四四石余、家数七〇(うち本村五二・光清寺口一八)・人数二六八。七〇軒のうち三〇軒は上伊福かみいふく村の日蓮宗妙林みようりん寺檀家。


内田村
うちだむら

[現在地名]東洋町野根のね 内田

野根川の東岸、中島なかしま村の上流に位置し、対岸は葛籠つづら成川なるかわの両村。三方を山に囲まれた地形から内田の名が生じたのであろう。野根郷に属し、そのほぼ中央部を占めるが、延文年間(一三五六―六一)の地頭惟宗長盛は内田にいたとの伝承がある。

成川村を流れる樫地かしじ川がはき出す土砂により野根川本流が東方へ押しやられ、内田村の田地はしだいに削り取られた。天正一七年(一五八九)の野禰村地検帳にみえる「川成クヱ残リ」の注記はその過程と思われる。


内田村
うちだむら

[現在地名]常陸太田市内田町

久慈川に合流する支流里川東岸の自然堤防上に位置する。北は小沢おざわ村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「内田村」とみえる。明和元年(一七六四)の戸数一〇六・人口六七四、文化二年(一八〇五)には一一〇戸。天保一三年(一八四二)の検地では田畠一二八町余、分米一千三三三石余であった(新編常陸国誌)。「水府志料」に「町屋より石神舟渡への道、又浜々より太田への道筋、里川に繰舟の渡し有り」と記され、また源義家が久慈川を越した時この村の者が案内したとあり、その者の屋敷に金砂かなさ大田楽の明神が一四度も休んだとあるように、久慈川流域と里川流域の交流の場として発達した。


内田村
うちだむら

[現在地名]三重町内田 内田・前内田まえうちだ

久知良くじら村の北東、三重川南岸にある。同川は西端を北流して玉田たまだ川を合せ、向きを南東に転じて流れたのち東端で松尾まつお川と合流して北東へと向きを変える。北は赤嶺あかみね村、北西は市場いちば村。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には内田村の一冊が含まれ、村位は上。同一一年の惣御高頭御帳に内田村とあり、高三一三石余、門田組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方一六四石余・畑方一四九石余、日損所と注記される。正保郷帳では三重之庄に属した。江戸時代後期の免は七ツ一分(「雑録」臼杵藩政史料)


内田村
うちだむら

[現在地名]菊水町内田

東境を菊池川が流れ、村央を東流する内田川を合し南流する。北は長小田ながおだ村・久井原ひさいばる村、西は下坂下しもさかした(現南関町)、南は月田つきだ(現玉名市)と接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田一七町三反一畝余・畠屋敷九町三反二畝余・屋敷筆数一七、分米二七〇石七斗余。同一三年の検地帳は二冊あり、一冊は田一三町一反六畝余・畠屋敷一五町余・屋敷筆数一五、分米二七一石七斗余、家数三六・人数四三、牛馬八、一冊には田七町九反八畝余・畠屋敷二町八畝余・屋敷筆数五、分米一〇九石八斗余、家数一〇・人数一一、馬一、下ケ名に桑津寺・六反田などがある。近世は内田手永に属する。


内田村
うちだむら

[現在地名]洲本市由良町内田ゆらちよううちだ

北は掛牛かけうし山を挟んで小路谷おろだに村と接し、津名つな郡に属する。南は由良浦、東は海、西は三坂みさか山などを隔て千草ちくさ村。村域のほとんどが東に傾いた斜面上にある。由良へ向かう道は小路谷村から掛牛山の中腹を坂道で通過し、ッ川で海岸に出て、内田明神社(現内田神社)に至る。さらに海岸に沿って南下、松崎まつさきを経て由良浦境の天川あまかわに至る。当村の開発については、寛永年間(一六二四―四四)の古碑が天川の山神社境内にあり、当時の淡路仕置岩田七左衛門・長谷川越前の名のみえる開墾地年貢減免の触書が彫込まれている。正保国絵図に村名がみえ、高一〇七石余。


内田村
うちだむら

[現在地名]鏡町内田

鏡町の南に隣接し、東は下有佐しもありさ村、南はしも村に接する。西は海辺で、文政四年(一八二一)七百町ななひやくちよう新地の築造によって宝出ほうで村が新たに立村した。下有佐村から分れた村で、近世には野津手永に属した。肥後豊後検地諸帳目録(県立図書館蔵)には慶長一二年(一六〇七)の項に「内田村一冊」とみえ、近世初期には成立している。小西行長領有のとき、キリシタンになった者があり、「肥後国古・転切支丹之類族調」に「八代郡内田村百姓転切支丹彦右衛門」など二系統がみえる。


内田村
うちだむら

[現在地名]苓北町内田

東は志岐しき村、西は天草灘に面した小村。早くから陶石の産出があり、焼物が作られた。平地は少ないが、現在山を切開いて蜜柑栽培が行われている。正保郷帳に村名がみえ、高一三九石余とある。志岐組に属し、庄屋は松江家。万治二年(一六五九)石高半減により七九石五斗余となった(天草風土考)。「国志草稿」に竈数一〇・男女数一一三とある。文政(一八一八―三〇)頃は高八四石七斗余(うち新田畑四石余)、家数五三・人数二五二。


内田村
うちだむら

[現在地名]松橋町内田

東の境下郷しもごう(現豊野村)から北の境浦河内うらかわち村にかけて二〇〇メートル級の小山が連なり、南西に向かうにつれて徐々に低地となり、西は豊福とよふく村、南は竹崎たけざき村へ至る。東端の内田山の字山田やまだに源を発するあさ川が西流している。慶長国絵図に村名がみえ、河江手永に属した。正保郷帳によると高三六五石余、うち田方三〇六石余・畠方五八石余。


内田村
うちだむら

[現在地名]浜田市内田町

周布すふ川右岸に位置し、南はない村、東は長見ながみ村、北は熱田あつた村。正保四年(一六四七)以前に内村から分村して成立し、同年の古田領郷帳に内村へ入と注記して村名がみえ、高二一五石余。宝永石見国郷村帳では内村枝郷として同高。「郡村誌」によると戸数一六六・人数六九五。上内田地区にある唐人河内とうじんごうち豊臣秀吉朝鮮出兵のとき従軍した周布氏の部将永見氏隆が二人の朝鮮人を連帰り、焼物を焼かせた所と伝える。


内田村
うちだむら

[現在地名]和泉市内田町・みどりおか

唐国からくに村の南にあり松尾まつお川が流れる。松尾谷の一村。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に村名がみえ、高五二二石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると高五三三石余、ほかに山年貢三石余、幕府領。元文年中改和泉国四郡郷村高帳では五五一石余。領主の変遷は唐国村に同じ。


内田村
うちだむら

[現在地名]邑智町内田

江川の支流君谷きみだに川の源流地域に位置し、北西は櫨谷かたらがい村。銀山御囲村に指定されていた。正保国絵図では高一九六石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によれば田方一六七石余・畑方二八石余、年貢高は米一〇三石余・銀二二四匁、小物成は山手役一〇匁など。


内田村
うちだむら

[現在地名]広川町水原みずはら

吉常よしつね村の東に位置し、広川が流れる。天正一七年(一五八九)村名が定められ、内田村四町とされる(稲員家記)。本高一〇九石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一七五石・役高二三四石。享和二年(一八〇二)の春免高帳に高二三五石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一一町四反余・開田一町余・畑田六反余・畑四町二反余・居屋敷二反余。


内田村
うちだむら

[現在地名]矢掛町内田

南流する美山みやま川の流域にあり、南は小林おばやし村。寛永備中国絵図に村名がみえ、高二〇一石余、松山藩領。正保郷帳では上内田村とあり幕府領で、枝村に下内田村が載る。元禄二年(一六八九)の備中国幕府領村々覚帳(福武文書)によれば、高一五一石余、田方三町九反余・畑屋敷三町一反余。


内田村
うちだむら

[現在地名]丸岡町内田

丸岡城下の東方山麓に位置する小村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では田屋たや村に含まれていたが、正保郷帳で分村、内田村として記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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