労働は人間という生物に独自の目的的生命活動として,人類史とともに古くからのものである。しかし労働の時間的長さが社会問題となるのは,近代の自由な賃金労働制度のもとにおいてである。そこでは人間の生命活動が他人の指揮命令のもとで他人の所有に帰する生産物をつくるための労働過程と,自己の自由な行為としての消費過程とに二分され,前者は後者の費用=賃金収入獲得のための単なる手段となる。労働時間は労働力商品購入者=資本家の利潤の源泉として延長される傾向におかれ,その傾向は労働者の肉体的あるいは文化的消費行為の時間=生活時間の圧縮・貧困化とそれへの反発・抵抗を生む。
中世初期の労働時間は,宗教的・共同体的・ギルド的規制のもとにあり,週ほぼ48時間程度だった。中世後期になって生産がしだいに消費を直接に目的とするのではなくて利潤目当てのものとなっていくと,労働時間の延長傾向が生まれる。さらにイギリス絶対王政は,自由な日雇労働市場の展開に抗して領主的農園労働力を確保する施策の一つとして〈最低労働時間法〉をつくった。その最初の立法(1495)は午前5時から午後7時~8時までの拘束,休憩2時間(朝食30分,午睡または昼食1.5時間)を差し引き実働12~13時間を強制しようとした。しかし,これには労働者の抵抗があり,実際の労働日=1日の労働時間は,W.ペティによると17世紀末で10時間(拘束12時間,休憩2時間)が一般的であった。
産業革命は,利潤獲得のために操業時間の大幅延長に駆られる資本家に対する労働者の従属を深め,その中心である繊維産業において労働日は10~12時間から13~16時間に延長された。長労働時間による労働者のとりわけ婦人・年少労働者の疲弊に対する社会的批判が高まり,10時間労働制を要求する時短(労働時間短縮)運動が展開された。また労働者の疲弊は労働力の衰退でもある。とくに技術発展において先行的で,より精巧な熟練とより濃密な労働強度を要求する大経営では,時短要求運動に対応して〈時短の経済〉による能率向上が目指された。それと同時に法制による時短の一般化を通じて,競争条件の公正化つまり長時間労働に依存する小資本の陶冶・淘汰が要求された。
こうした関連のもとで,時間規制の立法=工場法が成立する。それは,契約自由の原則との整合上,売手主体たりがたい婦人・児童のみを対象とするが,工場における協業的秩序の関連で成人男子の時短にも寄与した。イギリス繊維産業の1833年法(年少者(13~8歳)12時間)がその最初のもので,それ〈以後,近代産業にとって一つの標準労働日がようやく始まる〉(マルクス)。さらに1844年法(婦人12時間),1847年法(10時間)が制定され,64年には繊維産業のみならず広範な部門に10時間労働法が適用されるに至った。
19世紀後半に入ると労働組合が明確な時短運動の主体として登場してくる。1866年の第一インターナショナル・ジュネーブ大会は,8時間労働法を国際労働運動の要求として掲げた。それは,オーストラリアとアメリカで発展していた8時間運動8-hour movementの反映であり,またマルクスの次の指示に基づくものでもあった。〈労働日の制限は,国民の大部分を構成する労働者階級の健康と体力とを回復するためにも,知的発達と相互の交際と社会的・政治的活動との可能性を労働者に保障するためにも必要である。われわれは法律によって制定された8時間労働日を要求する。このような制限はアメリカの労働者の共通な要求である。大会の決議はこれを全世界の労働階級の共通の綱領にするであろう〉。86年5月1日は,アメリカの労働者が8時間労働を要求して,ゼネストに入った日である。89年の第二インターナショナル創立パリ大会が,8時間労働制その他の闘争において〈万国プロレタリアートの団結を誇示する〉ため,メーデーを国際的祝日とすることを定めたのは,このアメリカでの闘いを記念してのことであった。
1917年11月社会主義革命の直後,ソ連政府が世界最初の法制による全労働者対象の8時間労働制を実施した。その影響のもと隣国フィンランドで闘われた11月ゼネストの一つの産物が資本主義国で最初の8時間労働法である。さらにドイツ(1918年11月),フランス(1919年4月),イタリア(1923年3月)などで革命的反乱やストライキを経て8時間労働法が成立し,イギリス,アメリカでも協約による8時間制が広まった。こうしたなかで〈工業的企業における労働時間を1日8時間かつ1週48時間に制限する〉ILO1号条約が採択され(1919。85年現在日本は未批准),ここに8時間労働が国際的標準として確認された。その後,ソ連では1日7時間週41時間(土曜6時間)への時短が行われ,他方資本主義国では1929年の大恐慌後に失業対策として週40時間法(企業レベルでは多く週休2日に具体化)がフランスやアメリカで制定された。第2次大戦下の労働時間延長を経て,戦後ふたたび時短の趨勢(すうせい)が進み,70年代には週40時間制が年休4週間制と並行してヨーロッパの大勢となった。70年代半ばからの低成長と技術革新のもたらす失業の脅威のもとで,労働運動は35時間制を要求しており,40時間制は政治の革新や労働組合のストライキ運動によって突破されはじめている。例えば,フランスのミッテラン政府の39時間法(1982),協約によるものではイギリスの39時間(鉄鋼の1981年以降をはじめとしてかなり普及),西ドイツ金属・印刷・製紙の38.5時間(1985年4月以降)などがそれである。
第2次大戦前の日本資本主義は,繊維産業の女子労働者に典型的にみられるように,農村の窮乏に規定された特殊な低賃金と深夜勤・長時間労働という過酷な労働条件をその興隆の基盤としていた。したがって工場法への資本家の抵抗が大きく,その制定は1911年(施行は1916年)と遅く,またその保護(対象は15歳未満と女子)の内容は11時間労働制(就業12時間,休憩1時間。製糸・織物などは当面13時間労働)といった低劣なもので,就業12時間2交替制の紡績工場にはなんら影響がなかった。1919-21年の労働運動の高揚期に国際的影響もあって,成人男子工主体の工場における8時間労働制の実現が進んだ。19年9月の川崎・三菱神戸造船所争議はその典型であった。8時間制の内容は残業を予定したものが多く残業手当の計算基準の改訂といった性格が強かったが,20年4月からの恐慌下で残業廃止と時間当りの能率向上が行われた。また23年には10時間制(就業11時間,休憩1時間),深夜勤禁止を定めた改正工場法が制定された。明治40年代から大正期は(大戦ブーム期を除いて)時短の進んだ時期であったが,昭和に入ると,恐慌と戦争の到来のもとで労働時間は逆転延長された。
第2次大戦敗戦後は生産の停滞と労働運動の高揚の両因から労働時間は短縮される。戦闘的ナショナル・センターとしての産別会議の傘下では,拘束8時間制(所定休憩45分~1時間を含む)の協約が獲得され,その後の反動期にもこれは遺産として継承された。労働基準法(1947)は,全労働者に8時間労働制を導入した(32条,ただし36条の規定により成人男子については無制限の時間外労働が協定により可能)が,運輸・商業・サービス業などの9~10時間制(40条。ただし1981-85年に8時間労働への改善措置が行政的にとられた)など特例的規定が多い。
朝鮮戦争ブーム期から1960年にかけての時間延長期(月実働190時間から203時間に増加。〈毎月勤労統計〉による)に続いて,75年に至る時短の時期(172時間に減少)を迎える。それは労働運動と国際的圧力にもよっているが,決定的要因は技術革新と〈合理化〉による労働強化が能率維持のための時短を必然化する〈結節点〉(マルクス)に到達したことである。この高度経済成長期の時短の進行が,週休2日制や年休制度に顕著にみられる国際的劣位,大きな規模別格差の存在の解消にまでは至らぬままに,75年以降の時間延長・時短停滞期に入った。〈働き中毒〉といった,国際的批判への対応がいっそう迫られている。
執筆者:下山 房雄
1日8時間・1週48時間労働制は労働基準法(1947年公布)によって日本ではじめて労働関係を支配する一般的な建前として承認された(労働基準法32条1項,35条1項)。しかしながら,労働基準法はこの原則の適用について次のように広範囲の例外を許容している。
(1)恒常的例外 第1に,病院,商店,旅館,料理店その他の商業,サービス業および一部の輸送業従事者など非工業的事業の多くのものには1日9時間ないし10時間・1週54時間ないし60時間の特例長時間労働が許されてきた(労働基準法40条,労働基準法施行規則26~29条。ただし,この特例は1983年4月より業種および事業規模ごとに段階的に解消し,1988年3月末日をもってすべて廃止する原則であるが,商業,サービス業のうち1~4人の小規模事業については,その時点であらためて特例長時間制を廃止するか否か検討することとされている)。第2に,自然条件に支配される農林・畜産・養蚕・水産事業の従事者,および,事業の種類を問わない管理監督者,さらに,守衛や寮管理人などの監視断続労働者で労働基準監督署の許可を受けた者には,労働時間の規制のほか休憩(労働基準法34条),休日(35条)の定めも適用されないことになっている(41条)。通常の労働に追加して行われる宿日直(労働基準法施行規則23条)も監視断続労働とみなされている。
(2)臨時的例外 災害その他避けることのできない事由により臨時の必要がある場合において,労働基準監督署の許可を得たとき(労働基準法33条1項),業務の繁忙などを理由にするもので,事業場の過半数労働者の代表と所定事項について書面協定を結び労働基準監督署に届け出たとき(労働基準法36条,労働基準法施行規則16,17条),および公務のため必要があるとき(労働基準法33条3項),の三つの場合には,使用者は労働者を法定時間外または休日に労働させることができる。
(3)変形8時間制 使用者は就業規則であらかじめ定めたときは4週間の総労働時間数192時間の範囲内で,労働者を特定の日または特定の週に8時間または48時間を超えて使用することができる(32条2項。35条2項参照)。作業期間が自然条件に左右されやすい土木,建築,港湾などの事業および長距離交通・運輸事業で多用されているが,変形できる労働時間の1日当り(1勤務当り)の最高限度に制限がないことなどの点で立法の不整備を指摘する声が強い(この点は上記(2)の時間外・休日労働の場合も同じである)。
(4)事業場外の労働 出張,販売,募集,勧誘,集金,検針,記事の取材など事業場外で労働時間の全部または一部を労働する労働者については,〈労働時間を算定し難い場合には,通常の労働時間労働したものとみなす〉とされている(労働基準法施行規則22条)。
労働者が使用者の指揮命令を受けて労働する時間(手待ち時間,客待ち時間および次の労働のために待機を命じられた時間を含む)のほか,業務に不可欠または必要な作業前後の準備・後始末,清掃,工具の受領・着装・脱離・返納,安全衛生保護具の着脱等に要する時間,労働安全衛生法の定めに基づいて行う安全衛生のための種々の活動時間,有害業務従事者が特殊健康診断を受ける時間等が含まれる。
執筆者:渡辺 章
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
一般的には、労働に従事している時間。資本主義社会のもとでは、賃労働者は資本家に自己の労働力を時間決めで販売をし、資本家の指揮・監督のもとで労働に従事する。したがって、資本主義社会においては、労働者が資本家の指揮・監督下において労働に従事する時間のことをいう。これには休憩時間は含められない。なお、労働時間と休憩時間をあわせた時間は拘束時間といい、この拘束時間と対比する意味で労働時間のことを実労働時間(実働時間)とよぶ場合がある。
[湯浅良雄]
資本主義社会においては、資本家は激しい競争戦に勝ち抜くため、労働時間をできる限り延長し、剰余価値の拡大に努める。他方、労働者にとっては、労働時間が無制限に延長されるならば、人間らしい文化的な生活が営めないばかりか、精神的・肉体的荒廃が著しく進行せざるをえない。それゆえ、資本主義社会の確立以来、労働時間の限界をめぐって、資本家と労働者は激しく対立してきた。とくに、資本主義の初期の時代には、無制限に労働時間が延長されたため、時間短縮(時短)を求める労働運動が高揚し、この結果、標準労働日を定めた工場法が制定された。他方、労働時間が制限されると、資本家は制限された時間内において、より多くの剰余価値を獲得するために、労働強度の引き上げを追求した。このため、労働者はよりいっそうの時間短縮を求めて運動を強化したため、標準労働日は1日10時間、9時間、8時間、週の労働時間数は48時間、46時間、44時間、40時間というように歴史的に短縮されてきた。
[湯浅良雄]
第二次世界大戦前の日本においては、有効な工場法が制定されず、長時間労働が事実上野放しにされてきた。第二次世界大戦後制定された労働基準法(略称労基法、昭和22年法律49号)は、その第32条において、1日8時間、週48時間労働の原則(1999年4月より週40時間労働の原則)を定めるとともに、週休日、休憩時間、時間外労働、休日出勤(休日労働)、年次有給休暇(有給休暇)などを最低基準として法制化した。この労働基準法は、第二次世界大戦後の経済の民主化のもとで、日本の労働時間をできる限り当時の国際水準に近づけようとしたもので、第二次世界大戦前のきわめて不十分な工場法と比較すると、日本の労働法史上画期的な意義をもつものであった。
この労働基準法の基礎上で、高度成長期には日本の労働時間は多くの問題点をはらみながらも、徐々に短縮されてきた。しかし、ほかの先進諸国と比較するならば、日本では長期にわたって長時間労働が固定され、先進資本主義国のなかで年間労働時間が2000時間を超える唯一の国であった。その理由を以下にあげる。
(1)法的規制や労働協約の水準が長期にわたって低く、所定内労働時間自体が長い。ちなみに、ほとんどの先進諸国では、早い時期に法律か労働協約によって週40時間制を確立している。また、フランスでは1999年に週35時間法が成立し、翌2000年から施行された。
(2)有効な時間外労働の規制がなく事実上野放しになっている。時間外労働を規制するには、法律によってその最高限度を規制する方法と、高額の割増し賃金を課すことによって規制する方法がある。日本の場合、労働基準法には最高限度を定めた条項がなく、三六(さんろく)協定(労働基準法第36条。残業協定ともいう)を締結しさえすれば事実上無制限に時間外労働を行うことができるようになっている。また、割増し賃金も最高25%(1993年改正で25~50%)で、国際的にみてきわめて低い水準にある。
(3)週休2日制の形態が不完全であるとともに、その普及水準が低かった。
(4)年次有給休暇の給付日数が少なく、またその取得・消化率が低い。第二次世界大戦後、先進資本主義諸国では週休2日制を基礎に週40時間制を確立すると、年次有給休暇の拡大に運動が集中された。現在、ほとんどの国で4週間以上の年休が制度化され、スウェーデン、デンマーク、フランス、ルクセンブルクでは、5労働週が最低年休として法で定められている。
[湯浅良雄]
総じて、日本の長時間労働は、第二次世界大戦後40年もの間、労働基準法が改正されず、国際水準から著しく立ち後れていたこと、さらに企業別組合のために労働協約も有効な役割を果たせずにいたことが原因であった。
日本の長時間労働はその低賃金と結合することによって、日本の企業に国際的にみて不当に高い競争力を保証してきた。それゆえ、日本の輸出品がアメリカやEC(現EU)諸国に氾濫(はんらん)し、貿易摩擦が激化すればするほど、日本の長時間労働に対する外国からの批判が激しく展開されるようになった。このようななか、1987年(昭和62)9月「労働基準法の一部を改正する法律」が成立した(1988年4月施行)。改正の骨子は、週40時間制を法定労働時間の短縮目標として法律に明記したことであるが、この「労基法の改正」においては、すぐには週40時間労働制の実現は困難であるとして、暫定的な法定労働時間を法令により定めるという規定が盛り込まれた(附則第131条)。ちなみに法令では、1991年(平成3)3月までは週46時間労働、4月以降は週44時間にすることが定められた。
1992年(平成4)6月に策定された長期経済計画「生活大国五か年計画」(1992年度から1997年度まで)は、計画中に年間総労働時間を1800時間に短縮することを中心目標の一つとして掲げた。こうしたなか、1993年6月に「労働基準法及び労働時間の短縮の促進に関する臨時措置法の一部を改正する法律」が成立し、週44時間を定めた暫定措置が廃止され、1994年4月から1997年3月まで原則的に週40時間労働が実施されることになった。ただし、中小企業や特定業種に対しては週44時間制の猶予措置が設けられた。
1997年4月以降は、一部特定業種を除き、週40時間制が全面的に適用されるようになった。また、1998年9月の改正では、女性の時間外労働(年間150時間)、深夜業(午後11時以降)の制限が撤廃された。これにより、女性も午後11時以降の残業が可能になったわけだが、母親の帰宅時間が遅くなるなど、家での環境に変化が現れる。そこで、介護・小学校就学前の子の育児に携わる女性については、環境の激変緩和措置として、残業上限を一定期間は年間150時間とした。変形労働時間制(労働基準法で定められた最長労働時間の例外措置)については、変形期間が3か月以上の場合の労働時間の上限が1日10時間、1週52時間に延長された。
以上のように、1987年(昭和62)の労基法の改正以来、日本の労働時間は若干改善され、深刻な不況の影響もあるが、1992年(平成4)には年間総労働時間が1958時間となり、初めて2000時間を切った。その後、1998年には1879時間、1999年には1842時間(2000年2月段階での速報値)になった。しかし、なお目標の1800時間には到達しておらず、依然として年間1600労働時間の水準にあるドイツやフランスとは大きな格差がある。
[湯浅良雄]
『藤本武著『世界からみた日本の賃金・労働時間』(新日本出版社新書)』▽『山本潔著『日本の賃金・労働時間』(1982・東京大学出版会)』▽『基礎経済科学研究所編『労働時間の経済学』(1987・青木書店)』▽『山本吉人著『労働時間』(1995・有斐閣)』▽『大須賀哲夫・下山房雄著『労働時間短縮』(1998・お茶の水書房)』▽『労働省労働基準局著『労働時間実務事典――よくわかる解釈と運用のすべて』(1999・労務行政研究所)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…そこにはILOの基本原則として,(1)〈労働は商品ではない〉(労働非商品説),(2)〈一部の貧困は全体の繁栄にとって危険〉(連帯性の原則),(3)永続する平和の基礎は〈社会的正義〉(経済優先主義の否定),(4)労働者代表,使用者代表,政府代表の平等参加(三者構成の原則)の四つの労働哲学が明示された。さらに具体的には,〈ILOの厳粛な義務〉として,完全雇用と生活水準の向上,雇用の確保,職業訓練と労働移動の便宜供与,最低賃金・労働時間などの労働条件の改善,団体交渉権と労使協力,社会保障,生命と健康の保護,児童の福祉と出産保護,栄養・住宅およびレクリエーション,教育と職業の機会均等の10項目の促進が掲げられた。
[機構]
ILOの内部機構として,まず国際労働総会,理事会,国際労働事務局(その略称もILO)がある。…
…【三好 洋子】
【産業革命と週休制度の確立】
ところで産業革命,つまり資本制大工業による社会的生産の制覇は,自然的条件と宗教的慣行により規定されていた労働と休養・余暇の間の従来の時間的関係をも大きく変革した。一定量の資本からできるだけ多くの利潤を獲得しようとする資本家的動機に由来する労働時間の延長が,機械制大工業の労働様式そのものによって可能とされたからである。イギリスについていうならば,その絶対王政が強権をもって実現しようとしてできなかった12時間労働は,産業革命によってたやすく現実のものとされ,さらにそれを超えてときには18時間労働という事例さえあらわれた。…
…悲観説・楽観説両派による〈生活水準論争〉は泥沼化して決着がつかないが,論争の過程で,たとえば次のような変化の実態はしだいに明らかになってきている。工場労働における低賃金と労働時間の長さが同時代にもしきりに問題にされたことは,12時間労働を規定した1833年の工場法などをみれば明らかである。また初期の工場法が婦人労働と児童労働をとくに保護の対象としたことも事実である。…
…賃金労働者の場合,前者はK.マルクスのいう〈疎外された労働〉の時間であり,資本家の指揮命令に従う不自由な時間となる。後者は,労働者がどう使おうが自由な時間であるが,まず全時間から労働時間を差し引いた残余を超えられないという量的限定があり,さらにそのなかで生理的欲求と文化的欲求を必ず充足せねばならない。労働時間の延長はまず文化的時間の圧縮を,ついで生理的時間の圧縮をもたらす。…
…ここでは労働の性格は職人的要素をとどめているけれど,仕事自体が全体のシステムの中のきわめて細部の機能を担う点は変わらないので,やはり個々の労働の生産への貢献は抽象的である。現実の生産の質と量を決定するのは機械システムの状態と稼働時間であるから,機械の稼働時間とほぼ一致する労働者の拘束時間,すなわち労働時間だけが,労働と生産をつなぐ具体的な尺度となる。こうして,一方では労働は個人の能動的活動にひきつけてとらえられていきながら,他方労働と生産のつながりを問う局面では,それはますます抽象的な社会的に平均化された,時間で計測される量としてとらえられるようになるのである。…
※「労働時間」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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