休日(読み)キュウジツ

デジタル大辞泉 「休日」の意味・読み・例文・類語

きゅう‐じつ〔キウ‐〕【休日】

休みの日。業務・授業などを休む日。
国民の祝日のこと。
[類語]休暇休みホリデーバケーションバカンス

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精選版 日本国語大辞典 「休日」の意味・読み・例文・類語

きゅう‐じつキウ‥【休日】

  1. 〘 名詞 〙 休みの日。勤め、授業、営業などが休みとなる日。休業日。休み。また、日曜日や、特に国家が定めた国民の祝日。
    1. [初出の実例]「亦大業上官等、依休日参」(出典:権記‐長保二年(1000)五月一八日)
    2. 「お竹は、前の休日にも、兄と共に、釣に行きしが」(出典:尋常小学読本(1887)〈文部省〉五)
    3. [その他の文献]〔新唐書‐裴寛伝〕

やすみ‐び【休日】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 病気などの起こらない日。
    1. [初出の実例]「休み日も瘧ぶるひの顔よはく〈路通〉 溝汲むかざの隣いぶせき〈史邦〉」(出典:俳諧・星会集(1709))
  3. 仕事をしない日。また、日曜日、国民の祝日や安息日(あんそくにち)など、休みと定められた日。きゅうじつ。〔俚言集覧(1797頃)〕

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改訂新版 世界大百科事典 「休日」の意味・わかりやすい解説

休日 (きゅうじつ)

休日は働く者の労働のリズムを整え,労働力の再生産に活力を与えるために欠くことのできないものである。

工場法が施行されるずっと以前から,働く人たちは厳しい労働のあいまに,それぞれの生活に即した休日をもった。古い時代,休日はおおむね祭礼を伴った。異教時代のヨーロッパの休日としてとくに重要なのは五月祭のそれであった。五月祭は夏の到来を告知する祭りであり,五穀豊穣を祈る祭りであった。これに対して,11月1日のハローマスHallowmasは長い厳しい冬を先導する祭りであり,山野を彷徨する先祖の霊を暖かいわが家の炉辺に迎える祭りであった。この二つの祭りは一年の転機を画するものであり,両者の中間に,2月2日のキャンドルマスCandlemasと8月1日のラマス・デーLammas Dayが配置された。このような地上生活による一年の区分に対して,やがて天体の観測を通して一年を区分する方法が行われるようになった。夏至と冬至の祭りがそれである。このほか,春分の日にも祭りが行われた。たとえば,古代ローマ人は春分の日の前日,植物神アッティスの死の儀式を厳かに行い,春分当日には同じ神の復活を祝うにぎやかな祭りを行った。このように,数多くの異教の祭日のうち,いずれの祭日を重視するかは種族により,地方により,また時代によりそれぞれ異なっており,祭日の祝い方もさまざまであった。しかし,こうした祭日に共通することは,いずれも農業生産の豊作・豊穣を祈願することをその目的としており,人々はこの祭日を休日として日常の労働の苦しさを忘れ,歌と踊りと飲食を楽しんだという点にある。

 悠久の過去から伝わる異教の休日に対して,キリスト教会は週1回の安息日を設けた。それは天地創造の神が第7日目を休息日としたという故事にならったものである。7世紀に編纂されたアングロ・サクソンイネ法典には,安息日に労働した者に罰金を課し,安息日に奴隷を労働させた者に対して,その奴隷を解放すべきことが規定されている。また,フランクのカール大帝も勅令により安息日を定め,安息日の労働を禁止した。827年,王の息子ルートウィヒ1世が再公布した上記の勅令によれば,安息日には軍需品の輸送,食料運搬,領主の遺骸をその墓に運ぶという3種の運搬作業を除くいっさいの労働を禁止する旨が記されている。ところで,キリスト教がヨーロッパの民衆の間に定着するまでには,多くの宗教や民間信仰との習合の過程が必要であった。このためキリスト教会は週1日の安息日のほか,異教時代の祭日を重視し,これをキリスト教の祝日とした。たとえば,クリスマスは冬至の祭りに由来する。復活祭は,枯れた草木が山野を彩る変化に草木の霊魂の死と復活を信じた異教時代の祭りの趣旨を生かしたものである。聖霊降臨祭ペンテコステ)は夏の収穫の豊かならんと祈る農民の心を満足させるものであった。しかも教会は,これら三大祝日には当日のみならず,その前後1週間を休日とし,農民を賦役労働から解放し,キリストの恵みを伝えた。その他の異教時代の祝日にもいちいちキリスト教の祝日名がかぶせられた。たとえば,ハローマスは万聖節,キャンドルマスは〈聖マリアの御潔めの祝日〉,古代ローマの春分の日の3月25日は〈受胎告知日〉,夏至は〈洗礼者聖ヨハネの生誕の祝日〉(ヨハネ祭)と呼ばれるようになった。

 中世後期になってもなお,遠い父祖から伝わる異教時代の祭りを,農民が教会の庭で思うさま楽しむことができたのは,教会の寛大なはからいによるものであった。こうした教会の寛大さと心ある司祭の説教により,農民はしだいに春分の祭りよりは復活祭を,五月祭よりは聖霊降臨祭を,冬至の祭りよりはクリスマスを楽しむようになった。キリスト教の信仰は生産労働と不可分の休日と結びついて農民の心に浸透していったと考えられる。しかしキリスト教がヨーロッパ社会に定着した後も,異教時代の祭日の伝統はなお農民の間に根強く残存した。
執筆者:

ところで産業革命,つまり資本制大工業による社会的生産の制覇は,自然的条件と宗教的慣行により規定されていた労働と休養・余暇の間の従来の時間的関係をも大きく変革した。一定量の資本からできるだけ多くの利潤を獲得しようとする資本家的動機に由来する労働時間の延長が,機械制大工業の労働様式そのものによって可能とされたからである。イギリスについていうならば,その絶対王政が強権をもって実現しようとしてできなかった12時間労働は,産業革命によってたやすく現実のものとされ,さらにそれを超えてときには18時間労働という事例さえあらわれた。また綿業などでは,24時間昼夜操業も行われた。安息日である日曜のみならず,月曜あるいは火曜までも労働に就かないといった状況は改革され,土曜日の終業は多少早めにする(short Saturday)ということはあるにせよ,週6日労働が一般的になった。のみならず,溶鉱炉作業などでは週7日労働さえ行われるようになった。まさに〈大工業の誕生以来,雪崩(なだれ)のように強力で無際限な突進が生じ〉〈風習と自然,年齢と性,昼と夜に関するあらゆる制限が粉砕された〉(《資本論》1巻8章6節)のである。だが労働時間の無際限な延長は,一方で労働力の疲弊を通じての能率低下や労働者の反抗運動によって規制されざるをえず,休日設定を含む労働時間短縮が行われていく。

休日は日々の非労働時間=〈自由時間〉における休養にもかかわらず,蓄積される疲労の回復や,一定量のまとまった時間を要求する余暇行動充足の機能を果たすが,産業革命期の終りにほぼ各国で成立する工場法は,日曜休みの週休制が資本主義制度のもとで確認され制度化される契機となった。世界史上最初の有効な工場法であるイギリスの1833年法が,繊維産業の児童労働を一日12時間週69時間と規制したのも,日曜休日と土曜早帰りの慣習を社会的標率として制度化したものにほかならない。労働時間短縮運動は,1日当り12→10→9時間と,規制の水準を逐次高めていくが,19世紀後半から20世紀初めにかけて盛んになった〈8時間〉運動は週休制を当然の前提とする週48時間要求運動でもあった。第1次大戦後の〈危機〉における労働運動の高揚は,8時間労働制をヨーロッパ全土に普及させた。

週48時間制の確立後,国際労働運動は週40時間制を要求するが,それは1930年代の世界大恐慌の情勢下に,失業・操短対策の意図もからんで端緒的に成立をみた。フランス人民戦線政府の週40時間法(1936)や,アメリカのニューディール政策における全国産業復興法NIRA(1933),公正労働基準法(1938)などである。週40時間の規制は,産業・企業のレベルでは大部分週休2日制として具体化された。だが第2次大戦の突入による時間延長が,この週休2日制を経過的なものにとどめてしまった。今日,日本以外の工業国で一般的に普及している週休2日制は,第2次大戦後の労働組合が,主として労働協約によって,週労働時間を44→42→40時間と逐次短縮していく中で1960年代後期に確立したものである。その背景には,技術革新による労働様式の変化が労働者の心身に与えた負荷,つまり大型の積極的余暇活動によらないでは癒(いや)されないようなストレスや部分的筋肉の過度の使用による新型の疲労の蓄積が存在している。

日本の工場法(1911制定,16施行)は,婦人・年少労働者に対し〈毎月少クトモ2回ノ休日ヲ設ケ〉るべし(7条)としたが,これは商人・職人層のもとでの〈1日・15日休み〉といった伝統を,日本資本主義がようやく再確認したものといえよう。週休制は明治初めに官庁に導入され(1874年日曜休み,76年土曜半休),給料生活者の階層にしだいに普及していくが,工場労働者,とりわけ中小企業労働者の場合は,第1・第3日曜休みといった月2回休日制が,第2次大戦にいたるまで一般的であった。

 労働基準法(1947制定)は,1日8時間・週48時間の規制(32条)と並んで週休制を初めて法制化(35条)したものであるが,現実には1960年代後半の労働力不足期までは,商店,零細企業では毎日曜休むということはなかった。また,今日の大企業労働者でさえも,ILO1号条約(6条2項)に違反して無制限の時間外・休日労働を容認する労基法36条の〈三六協定〉に助けられてかなりの休日出勤を行っている。つまり8時間労働・週休制は未確立といえる。

 なお,日本の週休2日制についていうと,それは週40時間制の前提ぬきに,60年代の技術革新の中で自動車,電機などの民間大工場の〈合理化〉と並行してまず導入され,官公庁を除く大企業労働者においてかなり普及した。しかし,労働省行政指導にもかかわらず,中小企業では未実施のところが多く,このため月2回土休などの不完全週休2日制といった日本独自に創られたカテゴリー(第2次大戦前の官僚には月2回週休2日制といった造語をする知恵がなかった)を含めても,週休2日制は,従業員30人以上規模の企業の約半分にしか導入されていない(ただし労働者数でみれば約3/4)。
労働時間
執筆者:

労働基準法35条1項は,使用者は労働者に毎週少なくとも1回の休日を与えなければならない,と規定している。1回とは普通1暦日をいうが,交替制労働の場合は,午後3時から翌日の同時刻までというぐあいに,継続24時間でもよい。ただし,(1)農林,畜産,養蚕,水産の事業に従事する者,(2)事業の種類を問わない監督管理者および秘書,(3)守衛や寄宿舎管理人など監視断続労働者で労働基準監督署の許可を受けた者,には与えなくてよいとされている。週休制の原則は,4週間を通じ平均して4日の休日を与える使用者には適用されない。このためあらかじめ休日を特定しておく心要はなく,特定した場合でも随時他の労働日に振り替える便宜的措置が多用され,〈変形休日制〉として問題視されている。民間事業の場合,国民の祝日,メーデー等を休日と定めるか否かは労使協定による。
休憩
執筆者:

日本古代の休日の制度は大宝令より始まる。古代の休日は〈假(か)/(け)〉といい,〈休暇〉の日,いわゆる〈六假〉は官司の勤務のない日で,申請を要しないが,在京の諸司のみで,国郡司にはなかった。6日ごとに1日という規定であるが,現実には,6,12,18,24,晦(大月は30日,小月は29日)である。ただし中務,宮内の2省,供奉諸司および五衛府は1日もあけることはできないので,一斉に休むことはなく,適宜1ヵ月に5日を給する。これ以外は申請による。養老令によれば,農繁期の休暇である〈田假〉は5月,8月に各15日,〈定省假〉は文武の長上官でその父母が畿外に居住しているものが父母を見舞うために3年に1回,30日,〈喪假〉は父母の喪にあうものは解任され,夫,祖父母,養父母,外祖父母は30日,曾祖父母,妻,兄弟姉妹,嫡子等は20日,高祖父母,嫡孫等は10日,孫,従父兄弟姉妹等は3日,受業の師の喪には3日,〈改葬假〉は20日~1日,遠方にあって喪を聞いたときは喪假の半分を給する(挙哀假)。国司が任終わって帰京するときの〈装束假〉は20~40日が給された。大学,国学生には5月に〈田假〉,9月に〈授衣假〉があり,学生は10日に1日の休暇(旬假)があり,假の前日に試験がある。以上のほか臨時に,個人的な理由で假を請うときには,五衛府の五位以上は3日,京官三位以上は5日,五位以上は10日を給し,これ以上の日数の假や,また畿外に出るときは奏聞したが,六位以下は所属の官司が判断して給した。また流徒罪のものや官戸の奴婢には10日に1日の假があった。律令官人の勤務形態は長上の官は假以外毎日勤務するが,番上の官すなわち舎人等は交替で勤務し,衛士は1日勤務し,1日は教習をうけた。勤務時間は夜明けに始まり,午前中で終わり,宿衛官は終日勤務する規定であった。ただし繁忙の官は規定にかかわらず終日勤務することがあった。また造東大寺司の写経所では写経の期限が規定されることもあり,定期の休暇はなく,夕も勤務しているが,種々の理由で休暇をとっている例が多い。
執筆者:

中世武士の日常的な勤務形態は,経済的収益源である所領を別に持つ者の勤務として,番体制が一般的であり,永続的な連日の勤務ではなかった。しかもこの番役勤仕は,基本的には合戦参加の日常化として定量化し難く,またこの奉仕は身分標式の名誉観念と結合していたために,休日の観念を生み難かったと考えられる。このことは番役への不参の処罰として,出仕停止や番衆の名字を削ることがしばしば行われている事実によっても推察できよう。したがって鎌倉・室町幕府においては,律令制下で定められていたような定日休暇は認められない。将軍や幕府の警固・宿直に休日を置きえないのは当然であるが,日勤的な御所内諸役や公事奉行人の場合でも通常3~6番の番制度がとられ,1月の当番が5~6日という当時の実情では,特定の休日を設ける必要はなかったであろう。その点では戦国期の《大内家壁書》に,在山口衆のうちの小分限の者に対して年100日の休暇が定められていることは,江戸幕府の番衆3分の1休暇制の萌芽を示すものとして注目される。

 もとより平常時においては,他の公用や勤務者の病気,親族の喪假や長期の所領下向などの際の休暇の請願も原則として認められたと考えられるが,そうした特別の休暇としては禁裏奉公などもその理由となった。《吾妻鏡》建保6年(1218)8月20日条によると,大江時広は望みを廷尉にかけ,将軍源実朝に禁裏奉公のための暇を願い出ている。このとき実朝はこれを認めなかったが,これも将軍への勤務が非定量的であり,休暇がまだ制度化されていなかったことを示すものといえよう。

 なお中世の農民や職人に関しても,定期的な休日の制度は知られていない。

執筆者:

江戸時代の上層農民には譜第下人,質奉公人,年季奉公人,季節傭と,性質の異なる下男下女を使う者が少なくなかった。この種の雇人を使う心構えは農書の類の関心事でもあり,次々と休みなく使うために必要な農具類を用意し,田畑への行き来にも,必ず物を運ばせる心構えが,主人には必要とされた。厳しい労働条件ではあるが,正月や盆の休みのほかにも田植後のさなぶり,稲脱穀後の稲扱(いねこき)祝などは広く知られるが,このほかにも農家の休日はあった。

 信濃山間部の一地主は江戸中期から詳細な農業日記をつけているが,それによると,1月8日の仕事始めから年末までの間に25日から30日に及ぶ休日のあったことが知られる。1月15日の小正月前後2,3日,3月5月の節句七夕,村祭,村狂言,4月8日の釈迦誕生会などが休みとなる。収穫と麦まきの重なる9月には休日がないが,他の月には少なくとも1日の休み日を設けている。このほか,奉公人の田畑の作業,夜なべ仕事についても,多くの場合一人前仕事の量が決められていて,それを果たしたあとの時間を,ほまち田畑,まつぼり作などという主家の貸付地で働き,その収穫を入手することがあった。
執筆者: 近世農村の休日は,一般に遊日(あそびび)と呼ばれた。遊日は大別して,正月,小正月,盆,節句,村祭などの年中行事的な祝祭日と,田植,稲刈休みなどの農業労働休養日とからなる。ただし,祝祭日も農業労働の年間サイクルに規定されるものが多い。遊日は村ごとの差異が大きいが,そのうえ農業生産や部落構成の変容により近世を通じて著しく変化した。

 近世前期,少数の村役人層が村落を支配し農業生産力も低位だった段階では,遊日は不動の慣行として固定,遵守された。ほぼ年中行事的祝祭日のみを内容とし,年間遊日数は15~25日程度の実例が多い。17世紀末~18世紀中葉の近世中期になると,本百姓体制的な村落共同体が確立したのに伴って,遊日の設定も年々正月の総百姓初寄合で議定される方式が一般化した。その決定に沿い,日取りを固定できない農休については,農作業の進行をみて直前に村役人が触廻状で日取りを指定する。遊日の内容では,労働生産力の向上を基盤に,田植・稲刈・草刈休み,あるいは地域農業の特質に応じた麦刈・ヒエ(稗)刈・木綿まき・蚕上げ休みなど多様な農休がとりいれられ,また新社勧請,新規祭礼から祝祭休日も増した。年間遊日数は25~40日程度が通例となる。この期には労働日の労働時間短縮の傾向がみられるが,遊日増加はこれと見合う動きであろう。

 18世紀末ごろを境に,近世後期の遊日はまた著増した。若者組や奉公人の,労働からの解放や遊興を求める志向が顕著となり,他方,商品経済と農民層の分解から非農業的諸営業民が増大し,単一農業労働サイクルに根ざす遊日設定を墨守し難くなったことが主因といえる。変化はまず定例遊日の増加としてあらわれ,その内容も古典的な年中行事日が後退して労働休養日が主体となる。年間30~50日が普通となり,極限的には,もともと多い東北地方に80日の事例がある。そのうえ,定例遊日以外に臨時休日を村役人に要求する不時遊日,願い遊日が多く,さらに村規定を破って気ままに私遊日をとる傾向もみられる。この時期になると,村定や領主触に遊日規制が頻出するが,効果はしょせん一時的なものでしかなかった。
執筆者:

中国では,官吏の休暇を〈沐(もく)〉(髪を洗う意),〈假寧(かねい)〉(假は暇,寧は里帰りの意)などと呼んだ。先秦時代の休暇のとり方についてはよくわからないが,官僚制度が整備された漢代になると,休暇が法的に保証されていたことが文献上から確かめることができる。漢代では5日ごとに1日の沐が与えられ,したがって1月に5日の休暇をとることができた。そのほか,冬至,夏至,伏日(真夏の暑い日)などの節季,洪水などの災害時にも休みがとれた。病気になると3ヵ月まで許されたが,それ以上に長びくと,天子の特別のおぼしめしがないかぎりお役御免になった。親が死ぬと通常3年の喪假が与えられ,その間官吏は役職を離れ故郷に帰って親の喪に服さねばならなかった。漢代の官僚はおおむね官舎ぐらしだったので,休暇が出ると帰宅して一家だんらんを楽しんだ。休日が待ち遠しいのは今も昔も変わらず,当時,休暇を金で買うことも流行した。次の魏晋南北朝時代は,ほぼ漢代の假寧制度を踏襲したが,南朝の貴族社会では休暇期間も長くなり,その運用にも甘いところがあった。山水詩人,謝霊運などは,その恩恵に浴したひとりである。また,南朝ではすでに旬假(じゆんか)が実施されていたらしい。旬假というのは月の10日,20日,29日(または30日)を定休日とするもので,これ以降,宋・元時代に至るまで官吏の休暇の基本となった。唐代になると,休暇の名目も増加し,旬假や節假(元日,冬至,寒食,清明節などの休日)のほかに,田假(農繁期の休暇),授衣假(9月の休暇)などが設けられ,皇帝や玄元皇帝(唐王室の始祖にかつがれた老子のこと)の誕生日にも休暇が与えられた。これらを合計すると,唐代の休日は1年365日の3分の1近くに達する。もっとも,旬假や節假が完全実施されたのは,太平を謳歌した玄宗の開元・天宝年間(713-755)に入ってからのことであった。宋代は唐代のそれをほぼ継承したが,田假や授衣假がなくなり,代わって皇帝の誕生日を祝う休暇が大幅に増やされた。元代になると休日は唐・宋時代に比べていちじるしく節減された。明代にはさらに簡素化され,節假も元旦,冬至,元宵(1月15日)の3種だけとなり,旬假も廃止されたので,官吏はわずかな節假と病気や不幸以外には原則として休めなくなった。時代が下るにつれ,官吏の仕事量はしだいに増大していったのである。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

普及版 字通 「休日」の読み・字形・画数・意味

【休日】きゆうじつ

お休み。

字通「休」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の休日の言及

【休暇】より

…1879年の教育令(いわゆる〈自由教育令〉)の立案過程で,〈学校ノ休業ハ日曜日ヲ以テ通例トス〉という案もあったが,実際には規定されなかった。81年の府県立学校幼稚園書籍館等設置廃止規則(文部省達)において,伺い出るべきことの中に〈休日〉があげられたが,同年の小学校教則綱領において,〈小学校ニ於テハ日曜日,夏季冬季休業日及大祭日,祝日等ヲ除クノ外授業スヘキモノトス〉とうたい,法制上はじめて通年授業を行う旨規定した。今日のように休業日を規定する方式がとられるようになったのは,1890年の小学校令において,〈小学校ノ休業ハ日曜日ヲ除ク外毎年九十日ヲ超エサルモノトス〉と定められて以降のことである。…

【仕事休み】より

…仕事休みには1日の労働の中で必要に応じてとる小時間の休憩と,1年の中に適当に配されている休日とがある。新潟県新発田市の農村部では,野良に出てもすぐに仕事にかからずに吸いつけ煙草などして休むことをオリヤスミといい,午前,午後各1回の休憩をタバコヤスミ,ナカヤスミ,食事後のをジキヤスミといっていた。…

※「休日」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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