十三湊遺跡(読み)トサミナトイセキ

デジタル大辞泉 「十三湊遺跡」の意味・読み・例文・類語

とさみなと‐いせき〔‐ヰセキ〕【十三湊遺跡】

青森県五所川原市市浦地区にある中世港町遺跡。町並みや館の遺構が確認され、中国・高麗製のものを含む大量の陶磁器などを出土した。

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精選版 日本国語大辞典 「十三湊遺跡」の意味・読み・例文・類語

とさみなと‐いせき‥ヰセキ【十三湊遺跡】

  1. 青森県五所河原市にある中世の港町の遺跡。町並みや館の遺構が確認され、中国・高麗製のものを含む大量の陶磁器などを出土した。

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日本歴史地名大系 「十三湊遺跡」の解説

十三湊遺跡
とさみなといせき

[現在地名]五所川原市十三 十三琴湖岳など

いわ川河口の十三じゆうさん湖西側に位置し、十三湖と日本海を隔てる砂嘴上に一三−一五世紀中頃にかけて繁栄した港湾都市の遺跡。十三湊は室町時代の「廻船式目」では全国の「三津七湊」の一つに数えられていた。昭和四三年(一九六八)に中央部の領主館地区(琴湖岳遺跡といわれた)で調査が行われたのをはじめとし、平成三年(一九九一)には国立歴史民俗博物館による調査(第一次と呼称)が行われ、以後、平成一五年まで同博物館・県教育委員会、うら(当時)が地区を分けて一五五次におよぶ発掘調査を行った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「十三湊遺跡」の解説

とさみなといせき【十三湊遺跡】


青森県五所川原市十三にある港湾を中心とする中世都市遺跡。13世紀初頭から15世紀後半に発展・繁栄した。津軽半島の日本海側ほぼ中央、十三湖(じゅうさんこ)の西岸に位置する。中世、北日本海交通の重要港として繁栄し、『廻船式目』には三津七湊の一つ「奥州津軽十三湊」として記述されている。津軽の豪族である安藤安東)氏が拠点を置いて栄えたが、南北朝期に津波で壊滅したという伝承が残り、長く幻の港町とされてきた。1991年(平成3年)以降、国立歴史民俗博物館、当時の市浦(しうら)村および青森県教育委員会によって組織的な発掘調査が行われて、遺跡の概要が判明した。現在の十三湖は日本海に直接開けているが、かつては砂州をはさみ、そこにある水路で日本海とつながっていた。遺跡はその砂州の先端部、南北約2km、東西最大500mの範囲に広がっている。中心の地区は空堀をともなう東西方向の大きな土塁で南北に分けられている。土塁の北側は領主やその関係者などが住んだと考えられ、掘立柱建物井戸鍛冶・製銅の工房などの遺構が分布する。中国製の陶磁器や東北地方では珍しい京都系のかわらけも出土している。土塁の南側は、町屋があったと考えられている。側溝を備えた南北道路とその両側には掘立柱建物と井戸のある区画が広がり、墓跡や畑もあった。約300m南側には伝檀林寺跡もある。2005年(平成17)、国指定史跡となった。JR五能線五所川原駅から弘南バス「十三」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

知恵蔵 「十三湊遺跡」の解説

十三湊(とさみなと)遺跡

青森県五所川原市の11〜15世紀の都市遺跡。1991年以降の調査で十三湖岸の砂州上に営まれた、約55haの豪族・安藤氏関係の遺構と判明。幅6mもの直線道路や高さ1.5mの土塁、武家屋敷、短冊形の町屋跡など、97年には一辺100mの安藤氏の館跡の全容、2002年に安藤氏の墓らしい15世紀前半の墳丘墓(直径約8m、高さ1.5m)が確認された。中国などからの貿易陶磁器もあり、国際交流が浮き彫りになった。

(天野幸弘 朝日新聞記者 / 今井邦彦 朝日新聞記者 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

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