十念寺(読み)じゆうねんじ

日本歴史地名大系 「十念寺」の解説

十念寺
じゆうねんじ

[現在地名]桑名市伝馬町

伝馬てんま町西側北端にあり、東海道に面する。北に光徳こうとく寺、南に寿量じゆりよう寺が並ぶ。浄土宗鎮西派、仏光山九品院と号し、本尊は阿弥陀如来立像。もとは朝明あさけ切畑きりはた(現三重郡菰野町)にあり、天平宝字元年(七五七)行基により創建された。寛元三年(一二四五)に同郡田光たびか(現菰野町)へ、さらに文明年間(一四六九―八七)に後の桑名城本丸の地に移った。天正一四年(一五八六)桑名城築城に際して泡州あわす八幡宮の東の油屋敷あぶらやしきとよぶ所に移り、のち慶長の町割の際に現在地へ移った。


十念寺
じゆうねんじ

[現在地名]上京区鶴山町

華宮山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来は空海作といい、「雍州府志」は恵心作とする。もと雲居うんご(現京都市東山区)のものと伝え、「山州名跡志」に「当寺本尊ハ往昔東山雲居寺ノ本尊ニシテ称摂取如来。其故ハ唯蓮トイフ尼アリ。彼仏ノ本誓念仏ノ衆生ヲ摂取シテ不捨ト云フ。摂取ノ二字以不会、雲居寺ノ堂ニ籠テ摂取ノ意ヲ示シ玉ヘト祈誓スルニ、夢中ニ本尊自壇下テ、唯蓮ガ手ヲ取、摂取ノ義是ナリト示シ玉ヘル故ナリ」と記される。永享三年(一四三一)真阿(後亀山天皇皇子)に帰依した将軍足利義教が誓願せいがん(現京都市中京区)寺中に一宇建立したのが起りで、当初宝樹ほうじゆ院と号した。真阿は応永年中(一三九四―一四二八)出家、永享一二年遺言で鳥羽とば川に水葬されている(「都名所図会」など)


十念寺
じゆうねんじ

[現在地名]奈良市南風呂町

南風呂みなみふろ町北側に所在。忍性山愛染院金毘羅こんぴら十念寺と号し、浄土宗西山深草派。本尊阿弥陀如来。「奈良坊目拙解」によれば天正年間(一五七三―九二)八条はちじよう(現奈良市)から移建された。享保五年(一七二〇)全焼。愛染堂に湛康の作と伝える明王像を安置。「八重桜」にも「北かはに十念寺の愛染とて名仏おはします、是も元興寺の一院たりしか、彼寺零落ののち西大寺の興正菩薩弟子に忍正法師むかしをしたひ、愛染堂を此所にうつしたまふなり、作は湛康のきざめるといへり」とある。


十念寺
じゆうねんじ

[現在地名]長野市南長野 西後町

浄土宗。紫雲山来迎院十念寺と称し、本尊阿弥陀如来。

寺伝に建久八年(一一九七)源頼朝が善光寺参詣の節、ここで十念をうけたことにより十念寺と称するに至ったという。「大塔物語」に「去間、善光寺妻戸時衆、同十念寺之聖、大塔人々既自害聞召、急至于彼(中略)彼時衆達、此彼落散屍共一々取納、或成栴檀煙、或築塚立卒都婆、各与十念、遍励弥陀引接之願望、利益之云々」とあるように、創建は古く、鎌倉光明こうみよう寺開山記主禅師が寺域を広めたともいう。


十念寺
じゆうねんじ

[現在地名]大東市北条六丁目

大念山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。江戸時代の本堂再建奉加帳(「大東市史」所収)によると、貞和年中(一三四五―五〇)の四条縄手合戦で多数の戦死者が出たが、永禄年中(一五五八―七〇)にもなお霊魂休まらず、里人がこれを厭い融通念仏功徳により霊を慰めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android