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十返舎一九 じっぺんしゃいっく

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

十返舎一九
じっぺんしゃいっく

[生]明和2(1765).駿河,府中
[没]天保2(1831).8.7. 江戸
江戸時代後期の戯作者。本名,重田貞一。通称,与七。別号,十偏斎,酔斎など。町同心の次男。初め江戸で小田切土佐守に仕え,大坂に赴任,同地で職を辞し,材木屋の婿となるが離縁になり再び江戸へ帰った。

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デジタル大辞泉の解説

じっぺんしゃ‐いっく【十返舎一九】

[1765~1831]江戸後期の戯作者。駿河の人。本名、重田貞一。初め江戸に出て、のち大坂に行き、浄瑠璃の合作で文筆活動を始めた。江戸に戻り、洒落本黄表紙などを書き、滑稽本東海道中膝栗毛」で有名になった。他に人情本「清談峯初花」など。

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百科事典マイペディアの解説

十返舎一九【じっぺんしゃいっく】

江戸後期の戯作(げさく)者。本名重田貞一。通称与七。別号十遍舎,十偏斎,酔斎など。駿河府中の人。30歳まで江戸から上方(かみがた)を放浪,近松余七の名で浄瑠璃木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがっせん)》などを書く。
→関連項目式亭三馬文化文政時代弥次喜多

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

十返舎一九 じっぺんしゃ-いっく

1765-1831 江戸時代後期の戯作(げさく)者。
明和2年2月8日生まれ。武士の子といわれる。大坂で浄瑠璃(じょうるり)作者となり,寛政5年江戸にでて版元蔦屋(つたや)重三郎のもとで,黄表紙,洒落(しゃれ)本,読み本などをあらわし,滑稽(こっけい)本を得意とした。天保(てんぽう)2年8月7日死去。67歳。駿河(するが)(静岡県)出身。姓は重田。名は貞一(さだかつ)。幼名は市九。通称は与七。別号に酔斎など。著作に滑稽本「東海道中膝栗毛」「江之島土産」など。
【格言など】この世をばどりゃお暇(いとま)に線香の煙とともに灰左様なら(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

十返舎一九

没年:天保2.8.7(1831.9.12)
生年:明和2(1765)
江戸時代の黄表紙洒落本・合巻作者。本名は重田貞一,幼名は市九,十返舎の号は香道の黄熟香の十返しにちなむ。十偏舎,十偏斎,重田一九斎とも称した。駿河府中の千人同心あるいは六十人同心の子ともいわれるが,父母の名は未詳。大坂町奉行小田切土佐守直年の配下として大坂へ上ったが,のち武家奉公をやめ,寛政1(1789)年2月上演の浄瑠璃「木下蔭狭間合戦」に近松余七の名で合作者として加わったのが戯作の最初らしい。同5年秋,江戸へ出て,山東京伝の知遇を得,京伝の黄表紙の挿絵をかく。続いて,書肆蔦屋重三郎の食客となり,錦絵に用いる奉書紙に礬水(絵の具のにじみなどをふせぐもの)を引いたりするうち,同7年,黄表紙『心学時計草』など3種を刊行,以後毎年20冊近くの黄表紙を書いた。この間,狂歌を三陀羅法師に学ぶ。享和2(1802)年滑稽本膝栗毛』を刊行,年を追うごとに好評を博し,文政5(1822)年まで正続合わせて20編が出て,文名も上がり,山東京伝,曲亭馬琴と並ぶ戯作者の地位を確立した。その他の著作も多く,洒落本は『恵比良之梅』(1801)など13種,『清談峯初花』(1819~21)などの人情本,『深窓奇談』(1802)などの読本の作がある。一九は馬琴と共に執筆料だけで生計を立てた最初の職業作家であった。洒と旅を好み,遊里にも通じていたが,作品とは違った几帳面な性格の持ち主であった。自分の娘を大名の妾にとの話があったとき,これを断った挿話が伝えられている(『江戸作者部類』)。晩年は中風で不自由をかこった。

(園田豊)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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江戸・東京人物辞典の解説

十返舎一九

1765〜1839(明和2年〜天保10年)【戯作者】歯切れのよいユーモアと諷刺で、傑作『東海道中膝栗毛』を著わす。 駿河国生まれ。本名は重田貞一。もとは奉行所に勤めていたが、で役職を辞し、浄瑠璃を修行。江戸の版元「蔦屋」の食客となり、黄表紙・合巻・洒落本・滑稽本・中本型読本・咄本など約400種を多作した作家。代表作は弥次さん北さんの滑稽な旅もの語り『東海道中膝栗毛』。江戸町人独特の歯切れのよい洒落とユーモアを描いた。戯作以外にも往来物、案文類などの実用書を著す。

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監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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世界大百科事典 第2版の解説

じっぺんしゃいっく【十返舎一九】

1765‐1831(明和2‐天保2)
江戸後期の黄表紙・洒落本・滑稽本・合巻作者。本名は重田貞一,通称は与七。十偏舎,十遍舎とも書く。駿河府中で武士の子として生まれ,若くして江戸に出て武家奉公をするが,まもなく大坂に移り,商家の養子となり,25歳で浄瑠璃《木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがつせん)》(1789初演)を若竹笛躬(ふえみ),並木千柳と合作している。1794年(寛政6)江戸に帰り,書肆蔦屋重三郎方に寄食し,翌95年《心学時計草》など黄表紙3部を出版,戯作者として登場する。

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大辞林 第三版の解説

じっぺんしゃいっく【十返舎一九】

1765~1831) 江戸後期の戯作者。本名重田貞一。駿河の人。江戸に出て武家に仕え、のち大坂に移り浄瑠璃を書くが名を成さず、江戸に戻り黄表紙・洒落本などを書き、滑稽本「東海道中膝栗毛」が大当たりし、以後多くの続編で人気を得た。式亭三馬とともに滑稽本の二大作家と称される。他に「心学時計草」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

十返舎一九
じっぺんしゃいっく
(1765―1831)

江戸後期の洒落本(しゃれぼん)、黄表紙(きびょうし)、滑稽本(こっけいぼん)、合巻(ごうかん)作者。本名重田貞一(しげたさだかず)、通称与七。十返舎は香道の十返(とがえ)しにちなみ、一九は幼名市九による。酔斎、十偏舎、十偏斎などとも号す。前半生の伝記は詳しくわからないが、駿府(すんぷ)で武家の子として生まれ、ある大名の家に仕えたがまもなく浪人し、23歳ごろ大坂で町奉行(まちぶぎょう)小田切土佐守(おだぎりとさのかみ)に仕えたというが、これもまもなく致仕したらしい。1789年(寛政1)近松余七の筆名で浄瑠璃(じょうるり)『木下蔭狭間合戦(きのしたかげはざまがっせん)』を若竹笛躬(ふえみ)、並木千柳と合作するが、94年江戸に出、翌年黄表紙『心学時計草(とけいぐさ)』以下3種を発表し、以後毎年20種近くの黄表紙を発表している。享和(きょうわ)(1801~04)に入っては洒落本も執筆するが、1802年(享和2)滑稽本『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』初編を出版した。読者の熱狂的歓迎を受けたこの作品は、22年(文政5)に完結するまで、21年間にわたって続編に続編を重ねて出版され続けた。この間、『道中膝栗毛』の作者として人気の高まるとともに、読本(よみほん)、人情本、咄本(はなしぼん)、滑稽本とあらゆるジャンルに筆を染め、黄表紙、合巻だけでも360種に達する作品を発表した、江戸時代の作家としては最大の多作家であった。読者の好尚に忠実にこたえようとした大衆作家としての姿勢からであり、同時に生活を筆で維持するためでもあった。事実、一九はその後半生を原稿料だけで生活をたて、そのためには戯作(げさく)以外にも、通俗的な庶民教科書としての往来案文類などを多数出版するとともに、また書肆(しょし)の依頼によっては素人(しろうと)作者の原稿を編集して出版し、名前を貸すなどしている。江戸後期の最大の大衆作家であった。天保(てんぽう)2年8月7日没。墓は東京都中央区の東陽院にある。[神保五彌]
『松田修著『十返舎一九――東海道中膝栗毛』(1973・淡交社)』

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世界大百科事典内の十返舎一九の言及

【滑稽本】より

…〈滑稽本〉とは明治以後の文学史用語で,江戸時代は人情本とともにその書型から〈中本(ちゆうほん)〉と呼ばれた。十返舎一九作《東海道中膝栗毛》(初編1802)以後明治初年までの滑稽諧謔を旨とする作品を指すが,文学史上は,中本の源流とみなしうる宝暦・明和(1751‐72)のころの,笑いを内包する教訓的作品をもふくめている。 文学史上,滑稽本の最初は1752年(宝暦2)刊の静観房好阿(じようかんぼうこうあ)作《当世下手談義(いまようへただんぎ)》とされ,当時の町の生活,風俗を批判,教訓するものであるが,説経僧の語り口を採用しておのずと笑いをかもし出す。…

【木下蔭狭間合戦】より

若竹笛躬(わかたけふえみ),近松余七,並木宗輔(千柳)の合作。余七は十返舎一九太閤記物の一つ。…

【東海道中膝栗毛】より

…滑稽本。十返舎一九作。初編は栄水画,他は自画。…

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