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和気広虫 ワケノヒロムシ

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デジタル大辞泉の解説

わけ‐の‐ひろむし【和気広虫】

[730~799]奈良末期・平安初期の女官。備前の人。清麻呂の姉。法名、法均尼。清麻呂とともに称徳天皇に仕え、宇佐八幡神託事件に連座し、備後(びんご)に配流。のち、許されて桓武天皇に仕えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

和気広虫 わけの-ひろむし

730-799 奈良-平安時代前期の女官。
天平(てんぴょう)2年生まれ。和気清麻呂(きよまろ)の姉。葛木戸主(かずらきの-へぬし)の妻。備前(岡山県)藤野の人。孝謙上皇につかえ,上皇にしたがい出家して法均尼と称した。神護景雲(じんごけいうん)3年道鏡事件で還俗のうえ狭虫(さむし)と改名させられ,備後(びんご)(広島県)に流された。光仁(こうにん)天皇の即位で京都にもどる。正四位上。慈悲心あつく,藤原仲麻呂の乱後の孤児83人を養子としてそだてたという。延暦(えんりゃく)18年1月20日死去。70歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

和気広虫

没年:延暦18(799)
生年:天平2(730)
奈良時代の女官。和気乎麻呂の娘,清麻呂の姉。藤野別真人広虫女,法均ともいう。15歳で葛木戸主の妻となり,孝謙天皇に仕えて信任を得る。天平勝宝8(756)年12月,それまで衣糧を与えて養育していた京中の孤児のうち成人した男9人,女1人を養子とした。天平宝字6(762)年孝謙上皇の出家に従って尼となり,法均と号した。また同8年,恵美押勝の乱で斬刑に相当とされた375人は,彼女が上皇を熱心に諫めたことにより死刑を免れ流罪となった。さらにこの乱後,庶民は飢えと疫病に苦しみ捨て子が続出するが,うち83人の子供たちを救い養子にした。神護景雲3(769)年,道鏡即位という宇佐八幡の託宣が伝わり,その真偽を確かめるための使者に選ばれるが,遠路に耐え難く,弟の清麻呂が代わって宇佐に赴き道鏡を退ける神託を奏上。このため共に処罰され,還俗して別部狭虫と名を改め備後国に流された。しかし宝亀1(770)年,称徳天皇の急逝で道鏡は失脚し,光仁天皇の即位後,清麻呂と共に配所より召し返され従五位下に復した。同5年に和気朝臣を賜り,同8年従五位上,天応1(781)年正五位上,従四位下と昇叙。このころ典蔵に任ぜられ,延暦4(785)年従四位上,同8年に内侍司典侍となる。諸侍従の臣に対する後世の評価は毀誉入り乱れているものだが,広虫についてはいまだかつて悪くいう者はいない。若くして夫に死別したが,貞順にして節操に欠けるところがなかったともたたえられる。

(菅原征子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

わけのひろむし【和気広虫】

730‐799(天平2‐延暦18)
奈良中期から平安初期に後宮に仕えた女官。ことに孝謙(称徳)女帝に重んぜられた。清麻呂の姉。その名が史料にはじめてみえるのは762年(天平宝字6)女孺,豎子として天皇の勅を伝宣したときで,同年孝謙上皇の出家にしたがい尼となり,法均尼を称した。当時,郡司の子女は采女(うねめ)として出仕したから,広虫もこの例に従い備前国藤野郡より出身したのであろう。そして葛木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚した。戸主は中宮職,のち皇后宮職(紫微中台)の官人となったから,広虫も後宮で天皇,上皇の側近としての地位を占めたものと思われる。

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大辞林 第三版の解説

わけのひろむし【和気広虫】

法均ほうきん尼の俗名。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

和気広虫
わけのひろむし

法均」のページをご覧ください。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

和気広虫
わけのひろむし
(730―799)

奈良末から平安初期の女官。清麻呂(きよまろ)の姉。葛木連戸主(かずらきのむらじへぬし)の妻。762年(天平宝字6)孝謙(こうけん)上皇が落飾し淳仁(じゅんにん)天皇にかわって天下の政をとると広虫も出家して法均(ほうきん)と号した。恵美押勝(えみのおしかつ)の乱(764)後斬刑(ざんけい)にあたる375人の助命を乞(こ)い、流(る)・徒(ず)(懲役刑)に減刑した。乱後の飢疫により捨て児(ご)が増えたが、彼女は83人を収養して子とし、これに葛木首(おびと)姓を賜った。押勝の乱の功により従(じゅ)五位下、勲六等。八幡(はちまん)神教事件にあたり、宇佐(うさ)へ遣わされることになったが、女性の身で遠路に耐えがたしとの理由で弟清麻呂にかわった。結局法均も称徳(しょうとく)女帝(孝謙重祚)の怒りに触れ狭虫(さむし)と改名して備後(びんご)(広島県)に流されたが、のちに召還され典侍(てんじ)正四位上に至り、没後正三位(しょうさんみ)を贈られた。[黛 弘道]

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世界大百科事典内の和気広虫の言及

【宇佐八幡宮神託事件】より

…当時大宰帥は道鏡の弟弓削浄人(ゆげのきよと)であるから,合意のうえの奏上であろう。天皇は夢に八幡神が,神教を聴かせるから尼法均(和気広虫)を派遣せよとあるが,法均は女で軟弱,遠路にたえがたいからと,その弟和気清麻呂を宇佐に派遣した。彼は神前で託宣を請うと,その神託は〈道鏡を天位につかしめば〉という前回と同様であった。…

【護王神社】より

…京都市上京区に鎮座。和気清麻呂と姉広虫を主神とし,藤原百川(ももかわ),路豊永を配祀する。清麻呂は藤原仲麻呂の乱平定,道鏡追放,平安遷都などで功をあげたが,そのゆかりの神護寺に,平安末期文覚(もんがく)がその霊社を建ててまつっていた。1851年(嘉永4)になり正一位護王大明神の神号が宣下され,さらに明治になり,74年護王神社と改称,別格官幣社となった。86年蛤御門近くの現在地に移し,同時に孤児の養育などに励んだ広虫,また同時期に活躍した百川,豊永を配祀,のち1915年広虫を主神とした。…

【女孺】より

…彼女たちの中には後に後宮十二司の上級官職につく者や,五位以上に昇るものもあった。孝謙上皇の側近として,また和気清麻呂の姉として有名な和気広虫も,女孺出身で従四位,典侍にまで昇進した宮人であった。【玉井 力】。…

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