喜多方(読み)キタカタ

デジタル大辞泉 「喜多方」の意味・読み・例文・類語

きたかた【喜多方】

福島県北西部の市。会津盆地の北部を占める。漆器・桐下駄・酒・味噌・醤油などを特産し、土蔵造りの建物が多い。平成18年(2006)1月、熱塩加納あつしおかのう村・塩川町山都やまと町・高郷村と合併。人口5.2万人(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「喜多方」の意味・読み・例文・類語

きたかた【喜多方】

  1. ( 会津盆地北方の呼称「きたかた」の音写 ) 福島県北西部、会津盆地北部の地名市場町として発展。漆器、清酒、下駄、家具を特産。蔵、ラーメンの町としても有名。磐越西線が通じる。昭和二九年(一九五四)市制。

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改訂新版 世界大百科事典 「喜多方」の意味・わかりやすい解説

喜多方[市] (きたかた)

福島県北西端にある市。2006年1月旧喜多方市と塩川(しおかわ)町,山都(やまと)町および熱塩加納(あつしおかのう)村,高郷(たかさと)村が合体して成立した。人口5万2356(2010)。

喜多方市北部の旧村。旧耶麻郡所属。1954年熱塩・加納両村が合体して成立。人口3256(2005)。会津地方北端を占め,北は飯豊連峰を隔てて山形県に接する。熱塩の地名は村内に熱湯の湧出することに由来すると伝えられ,現在も熱塩温泉(純食塩泉,61℃)があり,椿彫木彩漆笈(重要文化財)を有する示現寺もある。加納には慶長年間(1596-1615)に開発された岩尾銀山があり,明治期には銅山として再掘され加納鉱山と呼ばれた。ほかにも与内畑,黒岩などの鉱山があり,加納は鉱山の町として活況を呈した。昭和期にはセッコウを産出したが,1972年に廃山となった。耕地は村総面積の6%足らずで,米作のほか,葉タバコ,ホップの栽培が行われる。押切川上流にはロックフィル式の日中ダムがある。
執筆者:

喜多方市東部の旧市。1954年喜多方町と周辺7ヵ村が合体,市制。人口3万6410(2005)。市域は猫魔火山の西山頂や大峠付近の標高1000m以上の山地も含むが,会津盆地北部の標高200m前後の,いずれも阿賀川阿賀野川の上流)水系の濁川,田付(たづき)川,姥堂川,大塩川などのつくる複合扇状地面が主体である。中心市街地の喜多方の町名は1875年小荒井村など5村が合併して成立した際,会津盆地の北部一帯が古くから北方(きたかた)と呼ばれていたことにちなんで付けられた。旧喜多方町は田付川をはさみ,東岸に小田付(おたづき),西岸に小荒井の集落がそれぞれ南北に細長く延びる双子町であった。1904年現在のJR磐越西線が郡山から開通してから発展し,江戸時代からの伝統産業である漆器業,酒造業のほか,製糸業が中心的産業となった。昭和になって昭和電工のアルミニウム製錬工場ができたが,経営主体がかわり,規模も縮小された。近年は電気機器工業が大きく発展している。上三宮の願成(がんじよう)寺の木造阿弥陀如来三尊座像や慶徳の熊野神社の長床(ながとこ)(拝殿)は重要文化財となっている。市内には座敷蔵,れんが蔵など多くの蔵があり,75年ころテレビや雑誌で紹介されたのを機に〈蔵づくりの建物とラーメンの町〉として有名になった。裏磐梯や山形県と結ぶ道路や商店街の整備が進み,観光客が増加している。
執筆者:

喜多方市南東部の旧町。旧耶麻郡所属。人口1万0354(2005)。会津盆地中央部,阿賀川上流の日橋川の北岸を占め,盆地を流れる多くの河川の合流点にあたる。東部は雄国山西麓の山林原野からなる。中心の塩川は近世には米沢街道宿場町で,阿賀川舟運の遡行上限でもあり,若松城下に近い会津藩の舟運基地として発達した。大坂方面への廻米倉庫や船問屋が軒を並べ,藩内有数のにぎわいをみせたが,明治以降舟運はふるわなくなり衰退した。古くから水害の常襲地であったが,1956年の大洪水を機に日橋川改修事業が行われた。低地は肥沃な水田地帯で,多角化,大型化を積極的に進めている。雄国山麓では70年から国営の開拓事業が実施されている。弾正ヶ原は1882年の福島事件の舞台として知られる。JR磐越西線が通じる。

喜多方市南西部の旧村。旧耶麻郡所属。人口2321(2005)。只見川と阿賀川(大川)の合流点に位置する。1914年に現在のJR磐越西線荻野駅が設置されてから駅前集落として発達した荻野は中心集落の一つで,付近では石材に利用される荻野石(緑色凝灰岩)を産する。39年に建設された新郷発電所のダム湖を利用して,50年に県営荻野ボート場がつくられ,各種大会が開催されている。産業の中心は農業で,米を中心に野菜,大豆,ソバなどが栽培される。農家の兼業化に伴い,旧喜多方市,会津坂下町,会津若松市への通勤者が多い。

喜多方市西部の旧町。旧耶麻郡所属。人口4055(2005)。北は飯豊(いいで)山地を境に新潟・山形両県に接する。町域の8割が山地で,飯豊山麓に源を発する一ノ戸川が町の中央を南流し,南部を流れる阿賀川に合流する。古くから信仰を集めた飯豊山の福島県側の入口にあたる。かつては木地師,またぎなどの里として,また会津桐の産地として有名であった。現在は米作を中心にキュウリ,アスパラガスなどの野菜栽培が盛んである。またソバの生産拡大を図るため,つなぎを一切使わない山都そばの手打体験,試食,食べ放題のそばまつりを行うなど,そばによる村おこし事業も行われている。旧喜多方市に隣接し,旧同市への通勤者が多い。JR磐越西線が通じる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「喜多方」の意味・わかりやすい解説

喜多方(市)
きたかた

福島県北西部、会津盆地の北部を占める市。1954年(昭和29)喜多方町と松山、上三宮(かみさんみや)、岩月、関柴(せきしば)、熊倉(くまぐら)、豊川(とよかわ)、慶徳(けいとく)の7村が合併して市制施行。2006年(平成18)塩川、山都(やまと)の2町と熱塩加納(あつしおかのう)、高郷(たかさと)の2村を合併。JR磐越(ばんえつ)西線、国道121号、459号が通じる。一帯は若松城(会津若松市)の北方に位置し、従来北方(きたかた)とよばれた。中心市街は田付(たつき)川の東西にまたがり、1875年(明治8)東岸の小田付村(おたつきむら)と西岸の小荒井村などが一つになって喜多方町が成立した。近世、小田付には代官所が置かれ、また市場町でもあった。南部の塩川地区は米沢街道の宿駅で、会津米の出荷河港としてにぎわった。明治時代中ごろ会津三方道路の開通、岩越鉄道(磐越西線)の開設で、北方の交通の中心となり、工業も発達した。漆器、下駄(げた)、生糸、しょうゆ、みそを特産し、そのため市内には土蔵が多く、「蔵の町」としても知られる。近年では「ラーメンの町」としても有名。農業は米作のほか、ソバ、アスパラガス栽培も行われる。熊野神社の長床(ながとこ)(平安時代の拝殿)、願成寺(がんじょうじ)の阿弥陀如来(あみだにょらい)と脇侍(わきじ)、中善寺の薬師如来、勝福寺観音堂、示現寺の椿彫木彩漆笈は国指定重要文化財。1994年に喜多方市美術館が開館した。北部には熱塩、日中の2温泉があり、北西部は磐梯朝日(ばんだいあさひ)国立公園の一部となっている。面積554.63平方キロメートル、人口4万4760(2020)。

[安田初雄]

『『図説会津喜多方の歩み』(1969・喜多方市)』『『喜多方市史』全15冊(1991~2004・喜多方市)』


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百科事典マイペディア 「喜多方」の意味・わかりやすい解説

喜多方[市]【きたかた】

福島県西部,会津盆地北部から飯豊山(いいでさん)南部一帯を占め,北は山形県に接する市。1954年市制。田付(たづき)川の両岸にまたがる中心市街は市場町として発達。1904年の磐越西線開通後は漆器(会津塗),清酒,みそ,醤油,生糸の生産が増加した。会津ギリを用いた下駄や家具の製造,アルミニウムの製錬も行われたが衰退した。市内には座敷蔵,店蔵,レンガ蔵など2600棟以上の蔵があり,1975年ころからテレビや雑誌で紹介されたのを機に〈蔵づくりの建物とラーメンの町〉として知られるようになった。その後裏磐梯や山形県と直結する道路や商店街の整備も進んで,観光客が増加している。2006年1月耶麻郡塩川町,山都町,熱塩加納村,高郷村を編入。東日本大震災で,市内において被害が発生。554.63km2。5万2356人(2010)。
→関連項目磐越西線

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