国土総合開発(読み)こくどそうごうかいはつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「国土総合開発」の意味・わかりやすい解説

国土総合開発
こくどそうごうかいはつ

自然条件を考慮して、国土を総合的に利用、開発、保全し、経済、社会、文化などに関する事業を総合的に計画し、実施していくこと。

[伊藤善市]

沿革

第二次世界大戦前の地域開発に関する限り、北海道は日本でもっとも豊富な経験をもっている。北海道開発の歴史は、拓殖という文字が示すように、「拓地殖民」すなわち開拓と殖民の歴史であった。1869年(明治2)に開拓使庁が設置されたが、当時の政策課題は、廃藩置県、秩禄(ちつろく)の廃止によって失業した武士を北海道の内陸に吸収し、あわせて北辺の守りを固めようとするものであった。その後、札幌農学校を創設し、外国からも優れたリーダーを迎え、殖産興業に努力した。こうして、明治初年に10万前後にすぎなかった北海道の人口は、100年後の1980年(昭和55)には557万に増大した。しかし第二次世界大戦前における開発の特色は、主として人口収容と食糧増産に重点が置かれた。

 戦後の地域開発政策は、戦時中に考えられた国土計画の戦後緊急版として発足した。1946年(昭和21)の「復興国土計画要綱」においては、「先(ま)ず農業の再建を期すると共に、それを戦災の復興、軍需産業の解体並にその平和産業への転換、食糧の増産の基礎条件たる肥料、石炭、鉄鋼等の基礎産業再建との総合的関連に於(おい)て急速ならしめ、これによって過大の人口収容」を措置したものであった。しかしこの構想は戦時中の物資動員計画的な色彩が強く、どちらかといえば農本主義的なものであった。

 戦後の開発政策は、1950年に制定された国土総合開発法(昭和25年法律第205号)によって大きく前進することになった。その第1条によれば「国土の自然的条件を考慮して、経済、社会、文化等に関する施策の総合的見地から、国土を総合的に利用し、開発し、及び保全し、並びに産業立地の適正化を図り、あわせて社会福祉の向上に資することを目的とする」ものである。そのおもなねらいは、後進地域を開発し、国土保全、電源開発、食糧増産、工業立地の整備にあった。国土総合開発は、全国総合開発計画、都府県総合開発計画、地方総合開発計画、特定地域総合開発計画の4種からなり、そのほかに北海道開発法(昭和25年法律第126号)が特別法として制定をみた。また沖縄の本土復帰に伴い、沖縄振興開発特別措置法(昭和46年法律第131号)が制定された。

[伊藤善市]

全国総合開発計画

1962年(昭和37)に閣議決定をみた第一次全国総合開発計画(一全総)は、戦後十数年に及ぶ各種の開発経験から生み出された反省の産物である。この計画では、全国を過密地域、整備地域、開発地域の三つに分け、過密地域には過度集中の予防と再開発を図って工業の分散を行い、整備地域では産業基盤を整備して工場受け入れの態勢を整え、さらに開発地域にはいくつかの戦略的開発拠点を定めて、周辺の地域に開発の波及効果を及ぼし、それによって地域格差の是正を図ろうとするものであり、拠点開発構想とよばれた。

 政府は1969年に新全国総合開発計画(新全総)を閣議決定した。それは一全総で打ち出した拠点開発方式のいっそうの拡大と深化を図ろうとするもので、拠点都市と拠点都市を結ぶ交通・通信体系をはじめとする大規模プロジェクトが計画された。すなわち、情報化社会といわれる転換期を迎えて、巨大化する社会資本を、先行的、先導的、効率的に投下するための計画であった。その基本的考え方は、第一に、大都市に中枢管理機能を集中させ、工業などの産業開発は、できるだけ地方に分散させる。第二に、これまでの府県ごとの割拠主義的な地域開発をやめ、日本列島を一つの単位として開発し、地域の単位としては7ブロックを考える。第三に、開発方式については、従来からとってきた拠点開発方式の成果を踏まえながら、とくに大型空港、新幹線高速鉄道、国土幹線高速自動車道、自動電話などの交通・通信網および情報産業の整備・育成を図って、そのネットワークを日本列島全体に張り巡らす、というものであった。

[伊藤善市]

三全総と定住構想

政府は1977年(昭和52)に第三次全国総合開発計画(三全総)を閣議決定した。この計画の基本目標は、「限られた国土資源を前提として、地域特性を生かしつつ、歴史的、伝統的文化に根ざし、人間と自然との調和のとれた安定感のある健康で文化的な人間居住の総合的環境を計画的に整備する」ことにある。このように、三全総の特色の一つは、定住構想を打ち出し、新しい生活圏を確立しようとするものである。定住構想のねらいは二つある。第一は、大都市への人口と産業の集中を抑制すること。第二は、地方を振興し、過密・過疎問題に対処しながら、全国土の利用にあたってその均衡を図り、人間居住の総合的環境の形成を図ること、である。

 これまで環境といえば、もっぱら自然環境に限定されて論ぜられるきらいがあったが、三全総ではこのほかに生活環境と生産環境を加え、この三者が調和のとれたものにすることを構想している。また、居住の安定性を確保するためには、雇用の場の確保、住宅および生活関連施設の整備、教育・文化・医療の水準の確保が基礎的な条件であるとし、「特に大都市圏と比較して定住人口の大幅な増加が予想される地方都市の生活環境の整備とその周辺農山漁村の環境整備が優先して図られなければならない」と強調している。

[伊藤善市]

開発理念の変遷

第二次世界大戦後の日本の開発経験を省みて、そこで取り上げられてきた地域開発の政策理念を類型化すると次のようになる。

(1)敗戦によって失った国土と増大する人口問題に対処するため、食糧増産、地下資源の開発、水力発電の建設を中心とする資源開発を行って、人口を吸収すべきである。すなわち、国民に「食と職」を提供し、国民の生存を確保すべきである。

(2)荒れ果てた国土の保全と利用を図り、産業立地の適正化と産業基盤とくに工業立地造成を中心とする工業基盤の整備を行うべきである。

(3)高度成長によって大都市の過密化と山村や離島の過疎化が進み、地域格差が拡大した。そこで過密都市の再開発と山村、離島の過疎対策を図り、生活レベルの地域格差を是正し、すべての人が人並の生活ができるようにするべきである。

(4)国際化時代および都市化時代に対応するため、中枢管理機能や情報、交通などのネットワークを整備し、地域特性を生かした、自主的、効率的な大規模プロジェクトを計画し、高密度・高福祉社会に対応した拠点の整備と開発を行うべきである。

(5)国土や資源が限られたものであることを認識し、公共福祉の優先および自然環境の保全という基本原則にたって、空間や資源の開発、利用、保全など総合的環境を整備すべきである。

 以上に掲げた五つの理念は、それぞれ第二次世界大戦後における日本経済の復興、自立、高度成長、高密度・高福祉社会の建設、定住環境創造のための発想の転換という、経済政策の歴史的課題の推移にほぼ対応している。しかしながら、現実においては地域ごとに政策課題の重点を異にし、これら五つの理念がそれぞれ重なり合っている。たとえば、資源開発思想は、特定地域や低開発地域に現在でもなお強く残っており、政治的には地域格差の是正という形で運動が行われている。また企業の側では産業基盤の造成を重視し、大都市の住民は過密の是正を緊急の問題としている。いずれにしても、第一の食糧増産型は終戦直後の経済復興期、すなわち緊急事態の時期に対応し、第二の工業基盤整備型はサンフランシスコ講和条約締結後の経済自立期に、そして第三の過密・過疎の是正と格差縮小という政策課題は、1960年(昭和35)以降の高度成長期にほぼ対応している。さらにまた、第四のネットワーク構想は、国際化、都市化、情報化の時代における日本列島の再編成期に対応し、第五の定住圏環境整備型は、いわゆる「文化の時代」および「地方の時代」という発想の転換期に対応している。

[伊藤善市]

四つの政策課題

ところで、過密、過疎、格差、環境といった四つの問題に対する政策課題は、第二次世界大戦後一貫して続けられてきた、貧しさに対する挑戦が効を奏したために発生した課題でもある。つまり、われわれは貧しさに対する挑戦がかなりの成功を収め、豊かな社会に成熟しつつあるのだが、まさにそのために、いまや豊かさや開発のもたらしたプラス・マイナスの成果から、逆にいろいろの挑戦を受けることになった。発想の転換が必要なのはそのためである。「過ぎたるは及ばざるがごとし」という先哲の教えがあるが、日本列島は地域開発に関する限り、ハード面でもソフト面でも、まさに「過ぎたる」ところと「及ばざる」ところの問題を抱えているのである。

 過密、過疎、格差、環境という現代的政策課題は、とくに1950年代の後半以後急激に展開した、日本の工業化と都市化の進展に随伴して生じた問題である。いってみれば、それは日本経済の高度成長の産物なのである。そもそも経済発展は、戦略的産業が戦略的地域を中心とするイノベーション(企業の技術革新)によって展開されるから、第一段階においては不均整成長を主内容とする。したがって地域格差は拡大する。しかしながら、第二段階の適応の過程においては、人口移動が促進されるから、高度成長が持続的に進行する場合には、過密と過疎の問題が引き起こされる。しかしながら、このような人口の社会移動が、さもなければ拡大したはずの地域格差を縮小するという効果をもつ。このように、本来、地域格差縮小という政策目標と、過密・過疎の是正という政策目標との間には、伝統的な地域経済システムを前提とする限り、「あちらを立てればこちらが立たず」というように、論理的にはトレード・オフ(二律背反)の関係にある。各地域の発展速度が不均整である以上、地域格差を是正しようとすれば、人口移動を抑えることはできない。また過密・過疎の解消を政策の上位目標に置き、人口移動を抑制すれば、地域格差は拡大せざるをえない。

 先進国と開発途上国との間の格差が簡単に縮小せず、むしろ拡大しているのは、労働の国際移動が困難なためである。いわゆる南北問題が深刻化するのはそのためである。したがって、政策目標間にこのようなトレード・オフ関係がある以上、われわれは許容しうる格差、および許容しうる過密・過疎という発想にたち、賢明なる妥協の線を考えることが必要である。

[伊藤善市]

四全総への動き

すでに述べたように、三全総は「大都市への人口と産業の集中を抑制し、一方、地方を振興する」という分散型の開発戦略と、「地域主体の定住圏整備」という開発方式を採用し、国土利用の不均衡是正と地域格差および過密・過疎の解消を図ろうとするものであった。ところで、1980年代に入ってから、人と国土をめぐる諸情勢には、次のような変化が現れている。第一は、人口増勢の鈍化、高齢化、地方定住の進行であり、第二は、成長減速過程で、サービス経済化、情報化、ソフト化などの方向で技術革新と産業構造の変化が進んでいること、また第三に、ゆとり志向、文化志向、安定志向、個性尊重といった価値観の高度化、多様化が進み、さらに公共部門の財政制約の強まりと地域の自主性、自発性の高まりがみられること、などである。

 このような変化を背景として、全国各地域とも所得のみならず、生活の質的水準を含む総合的な豊かさを求めるようになってきており、地域格差問題も単なる所得格差論から総合格差論、機能別格差論など複雑化してきている。つまり量的な地域格差論が後退し、地域格差は程度の差となり、むしろ地域特性の違いとして受け止めるようになってきている。また過密・過疎問題は、地方圏から三大都市圏への人口集中が沈静化し、地方中枢都市、県庁所在都市などの人口増加率が高く、三大都市圏についても、東京圏の過大化、大阪圏の拡散と衰退、名古屋圏の集積不足といったように、大都市圏の問題の所在が急成長期のそれと大きく変わりつつある。このような変化に対応して、政府は三全総の理念を継承しながら、21世紀への国土づくりの指針を示すための第四次全国総合開発計画(四全総)を策定した。

[伊藤善市]

四全総

第三次中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣は1987年(昭和62)に西暦2000年を目標年次とする第四次全国総合開発計画を閣議決定した。この計画では、国際交流の中心としてますます重要視される世界都市東京への一極集中の動向をふまえ、特定の地域に人口や機能が過度に集中することなく、地域が多様かつ均衡ある発展をしていく多極分散型の国土を形成するべきだと提言した。

 具体的には、多極分散型国土形成に伴う各地域の役割として、東京圏は国際金融・情報機能等の面で世界の中枢的都市の一つに、大阪圏は経済・文化・学術研究の面で国際的拠点に、さらに名古屋圏は世界的な産業技術都市を目ざすべきだとした。このように四全総では、高次都市機能を東京圏が一元的に担うのではなく、多極的な分担によって一極集中を是正するとともに、地方圏を戦略的、重点的に整備し、計画期後半においては東京圏から地方圏への人口の流出を実現することを目標としていた。そのために、工業の分散、中央政府の部局や政府機関の移転再配置を図り、新たに設置する全国的な文化・研究施設を原則として東京外へ立地させる、などが考えられた。

[伊藤善市]

首都機能移転問題

多極分散型国土の構築を基準政策とする四全総が公にされてから、全国各地で遷都論が論ぜられるようになり、首都移転問題が浮上することとなった。

[伊藤善市]

巨大都市東京と首都機能分散の方法

首都東京の問題を論ずる場合、行政区画としての東京都を考えがちだが、東京は自己完結型の都市としてばかりでなく周辺3県(千葉県、埼玉県、神奈川県)を含む東京圏として理解すべきであり、場合によっては首都圏にまで拡大してとらえたほうが、東京の都市機能を理解するのに有効である。

 1999年(平成11)の東京の夜間人口は23区で805万人、都内で1194万人、東京圏で約3300万人である。半径50キロメートル圏内に3300万人という超巨大都市圏が実現したということは驚くべきことである。すでに一言したように、東京は一国の首都としての機能のほかに、世界都市としての国際的機能が集積している。したがって、東京が地震などの大災害にみまわれると、あらゆる面での中枢機能が麻痺(まひ)してしまう。そのため、国家的安全性ということからも、東京一極集中型の国土利用構造を変える必要がある。

 首都機能の分散には次の五つの方法が考えられている。

(1)遷都方式 立法・司法・行政という首都機能を一括して新しい地域に移転させようとするもの
(2)分都方式 首都機能の一部を南関東以外の地域に移すというもの
(3)展都方式 首都機能の一部を南関東、すなわち東京圏に移そうというもの
(4)改都方式 現在の首都東京を改造し、再開発しようというもの
(5)首都機能を休止させる方式 種々の都市活動の水準を低下させ、一定の限界内におさえてコントロールしようというもの
[伊藤善市]

仙台重都構想

ところで、四全総が策定される前に全国に先がけて提言された東北経済連合会の仙台重都構想は、1990年(平成2)11月の衆参両院における「国会等の移転に関する決議」や、同決議に基づく1992年12月の「国会等の移転に関する法律案(国会等移転法)」の可決を促したものとして、注目に値する。

 これは、東京から福岡に至る第一国土軸に次いで東京から札幌に至る第二国土軸上に首都機能を展開させ、仙台を重都として、首都機能の補完と代替を行おうとするものである。提言理由の一つは、東京がもっている首都機能のほか、世界都市としての高度情報機能や国際金融機能の一極集中型の集積に伴う危機管理がもっとも緊急を要する課題であり、とくに大規模地震の発生に対する危機管理を重視したことに求められる。すなわち、近い将来における大地震の発生が確実であるならば、東京と同時発生をしない地域、したがって同時被災の可能性が少ない所に遷都すれば、被災を未然に防ぐことができるが、現代の地震発生のメカニズムについての有力な理論であるプレートテクトニクス理論から、プレートの構造を異にする東京と仙台に地震が同時発生する可能性はきわめて小さく、東京から東海道に至るプレートは同じフィリピン海プレートであるため、同地域への遷都には問題があるとしている。

 重都構想は東京一極集中に伴う危機管理問題を解決するための構想であるが、それは平時においては東京の首都機能を補完し、緊急時には首都機能の代替を構想しているのである。したがって、重都構想は遷都というよりは分都の一形態というべきもので、平時と緊急時の双方に対応しうる点で注目に値する。

[伊藤善市]

移転問題のその後

1992年に「国会等移転法」が可決、公布されたのち、1993年には国会等移転問題調査会が発足、2年9か月にわたる調査審議の結果、1995年12月に最終報告書が提出された。次いで国会等移転審議会が総理府(現内閣府)に設置され、移転先候補地の選定のための調査部会が発足した。審議会では1999年、「『那須・福島地域(栃木県那須(なす)地域と福島県阿武隈(あぶくま)地域)』または『岐阜・愛知地域(岐阜県東濃地域と愛知県西三河北部地域)』を移転候補地とし、『三重・畿央地域(三重県鈴鹿山麓(すずかさんろく)地域と三重、滋賀、京都、奈良の4府県にまたがる畿央地域)』については、将来新たな高速交通網などが整備されることになれば、移転先候補地になる可能性がある」とする答申を行った。

[伊藤善市]

五全総

国土審議会は1998年(平成10)3月に「21世紀の国土のグランドデザイン」と題する第五次全国総合開発(五全総)計画を答申した。「地域の自立の促進と美しい国土の創造」という副題が示すように、グランドデザインの目標は「歴史と風土に根ざした新しい文化と生活様式をもつ人々が住む美しい国土、庭園の島ともいうべき、世界に誇りうる日本列島を現出させ、地球時代に生きるわが国のアイデンティティを確立する」ことに置かれた。

[伊藤善市]

多極多軸型国土構造

計画の特色の第一は、太平洋ベルト地帯への一軸集中から東京一極集中へとつながってきたこれまでの方向を転換し、多極多軸型国土構造を掲げたことである。日本列島は、東京から福岡までの1000キロメートルに及ぶ国土軸の沿線地域に産業と文化が集積され、とくに明治維新以後、近代的な中枢管理機能を支えながら日の当たる場所として栄えてきた。東京から福岡に至る第一国土軸は、すでにかなりの集積が実現され、将来この軸を中心として発展させようとしても限界がある。したがって今後多極分散型の国土をつくるためには、東京から札幌に至る第二国土軸を整備することが望ましい、という指摘が三全総(1977)でなされていた。このたびの計画ではこれをさらに拡大深化させ、集中と巨大化によって集積効果を上げるのではなく、地域間の連携と交流によって集積にかわる効果を発揮させようとしている。そのため、高度成長を支えた太平洋ベルト地帯の再生を図る西日本国土軸のほか、北東国土軸(中央高地から関東北部を経て、東北の太平洋側、北海道に至る地域およびその周辺地域)、日本海国土軸(九州北部から本州の日本海側、北海道の日本海側に至る地域およびその周辺地域)、太平洋新国土軸(沖縄から九州中南部、四国、紀伊半島を経て伊勢湾沿岸に至る地域およびその周辺地域)が構想されている。

[伊藤善市]

国際交通体系の整備

第二の特色は地球時代の到来を先取りして、とくにアジア諸国との密接な連携と交流を強調していることである。たとえば九州から朝鮮半島へ、沖縄から台湾、中国本土へと、すでに活発な交流が始まっているが、このたびの計画においては全国各地域と東アジア各国との間に、出発したその日のうちに到達でき、一定の用務が行える「東アジア一日圏」というべき国際交通体系の整備が構想されている。

[伊藤善市]

多自然居住地域

21世紀のグランドデザインを実現するためには、各地域が自立を促進し、生産・流通・消費を支える機能だけでなく、自然環境を保全、回復する機能、新しい文化と生活様式を創造する機能を兼ね備えた多様性のある地域づくりを志向しなければならない。これによって国土の安全と暮らしの安心を確保し、人々が自ら暮らす地域に誇りのもてる魅力ある地域づくりが実現するのである。この計画では以上の課題を達成するための戦略として、中小都市と山間地域等を含む農山漁村などの豊かな自然環境に恵まれた地域を新たな生活様式を可能とする国土のフロンティアとして「多自然居住地域」と規定し、とくに地方拠点都市地域については地域の自立に向けて拠点性の向上を図るとともに、その地域経営にあたっては起業家的な積極性の展開を期待している。さらにまた、近年空洞化がみられる中心市街地問題については、商店街の再生を行うとともに、都市的魅力を創出し、その活性化を図るべきだと述べている。

[伊藤善市]

安全な居住環境の整備

また過密に伴う諸問題を抱えている大都市を安全で潤いのある豊かな生活空間へ再生するため、大都市空間を修復、更新し、有効活用する「大都市リノベーション」を促進すると述べている。日本は自然災害のすべてが頻発する国である。気象衛星によって台風の位置や強さをとらえ、コンピュータを利用してその進路を予測したり、また地震の予知に関してもある程度可能となったため、災害による被害は最小限度に抑えることができるようになった。しかし大都市においては、さらに都市改造や住宅構築を促進し、耐震都市に改造する必要がある。

 21世紀における地域政策では、とくに再生不可能な天与の資源の保全と同時に、その培養を図らなければならない。豊かな緑の再生はいうまでもないことだが、自然が多く残っている地方圏では地方都市と周辺農村を一体として美しい田園景観を維持しながら、耐震都市を形成し、安全と安心を重視した居住環境を整備する必要がある。自然資源の保全と培養によって、空気・水・土壌・緑の環境が活性化し、子々孫々に至るまで、安全な生活が保障されるのである。

[伊藤善市]

『伊藤善市著『都市化時代の開発政策』(1969・春秋社)』『下河辺淳著『資料新全国総合開発計画』(1971・至誠堂)』『田中角栄著『日本列島改造論』(1972・日刊工業新聞社)』『伊藤善市編『過密・過疎への挑戦』(1974・学陽書房)』『西水孜郎著『資料・国土計画』(1975・大明堂)』『『ジュリスト増刊総合特集11 国土計画と生活圏構想』(1978・有斐閣)』『伊藤善市著『地域開発論』(1979・旺文社)』『伊藤善市著『東京と地方』(1988・中央経済社)』『地域振興プロジェクト研究会企画・編、国土庁計画調整局特別調整課監修『多極分散法ガイドブック』(1989・総合行政情報)』『伊藤善市著『地域活性化の戦略』(1993・有斐閣)』『下河辺淳著『戦後国土計画への証言』(1994・日本経済評論社)』『伊藤善市著『地方の魅力を考える』(1996・中央経済社)』『総合研究開発機構編『戦後国土政策の検証――政策担当者からの証言を中心に』上下(1996・全国官報販売協同組合)』『国土庁計画・調整局監修『21世紀の国土グランドデザイン――地域の自立の促進と美しい国土の創造 新しい全国総合開発計画の解説』(1999・時事通信社)』『矢田俊文著『21世紀の国土構造と国土政策――21世紀のグランドデザイン考――』(1999・大明堂)』『国土庁編『国土レポート2000――国土づくり50年のあゆみと21世紀への展望』(2000・大蔵省印刷局)』『伊藤善市著『随想地域を創る』(2001・エルコ)』『本間義人著『国土計画を考える――開発路線のゆくえ』(中公新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「国土総合開発」の意味・わかりやすい解説

国土総合開発 (こくどそうごうかいはつ)

国や地方自治体が,その時代に直面する課題を解決し,国民生活の向上と安定に寄与するために,地域の資源や土地,労働力を有効に活用して地域の生産力や所得・雇用を増大させる政策をとることを地域開発と呼ぶ。それゆえ,地域開発は経済政策の一分野ということができる。この地域開発を全国的な規模で推進することによって,国土をより有効に利用し,国民経済の発展や地域格差の是正,未利用資源の活用,国土の保全などを総合的に図るのが国土総合開発である。

 それゆえ,国土総合開発は国の国土政策の一環として実施されるものであり,そのために〈国土総合開発法〉(1950公布。以下〈国総法〉という)が制定され,それに基づいて設置された国土総合開発審議会(略称,国総審。1979年以後,首都圏整備審議会,近畿圏整備審議会等と統合して国土審議会となる)の意見を聞きながら特定地域総合開発計画(1951地域指定),全国総合開発計画(1962,全総),新全国総合開発計画(1969,新全総),第三次全国総合開発計画(1977,三全総),第四次全国総合開発計画(1987,四全総),第五次全国総合開発計画(1998,五全総)などが,閣議決定されてきた。

 国土総合開発計画が国民経済で果たす役割としては,第1に,その計画が掲げる目的に向けて,土地や水の利用,労働力の活用,財政投資のあり方を総合的に調整し進めていくことがあげられる。第2に,その計画が各省や地方自治体の策定する計画に対して,上位計画として位置づけられる(国総法7条)ことによって,さまざまな計画に整合性をもたせることができる。第3に,国民経済の目ざすべき課題を明らかにし,そこに設定された目標の達成に向けて計画し推進されるさまざまな開発計画に対する地域住民のコンセンサスの形成に寄与することなどがある。他方,その反面において,そこに設定された目標が,地域の経済や生活に急激な変化をもたらし,地場産業の衰退や住民生活の破壊を招いたり,その目標自体が国民経済や世界情勢の変化の中で再検討されなければならないこともある。こうしたなかで,国土総合開発計画の見直しや改訂が必要となってくるのである。

 近年は国民生活水準の向上や中央と地方の情報格差が縮小し,また地域での計画能力の上昇によって内発的発展を進める事例が多くなり,それを支援するタイプの国土政策の要素も強くなってきた。

日本の国土総合開発の前史には,(1)北海道開拓にみるような資源開発と国防政策の結合型(明治年間),(2)官営工場や軍需工場を作ってそれを民間に払い下げたり貸与したりする殖産興業型,(3)朝鮮や満州,台湾などにおける大規模な資源に対する侵略を含む植民地経営型,(4)昭和恐慌時,とくに1934年の大冷害を契機として開始された東北地方の振興開発の例のごとく,後進地域の経済格差是正型,(5)戦時体制に入った中で,41年に策定された国土開発計画に盛りこまれた軍需工場の地方分散をおもな内容とする国防分散型などがある。

 こうした第2次大戦前の国土開発計画は,戦後の国土総合開発計画とは制度上はまったく切り離されているが,素材的(フィジカル)な側面からいえば,旧軍需工場の跡地と臨海コンビナート用地が連続していくことや,植民地における大型ダム建設の技術者の戦後の日本への引揚げによって中央に形成された技術者集団など,関連を指摘することができる。

1950年5月に公布された〈国総法〉は,〈国土の自然的条件を考慮して,経済,社会,文化等に関する施策の総合的見地から,国土を総合的に利用し,開発し,及び保全し,並びに産業立地の適正化を図り,あわせて社会福祉の向上に資すること〉を目的として規定している(1条)。そして,〈国土総合開発計画〉の中身を,(1)土地,水その他の天然資源の利用に関する事項,(2)水害,風害その他の災害の防除に関する事項,(3)都市および農村の規模および配置の調整に関する事項,(4)産業の適正な立地に関する事項,(5)電力,運輸,通信その他の重要な公共的施設の規模および配置ならびに文化,厚生および観光に関する資源の保護,施設の規模および配置に関する事項について,〈国または地方公共団体の施策の総合的かつ基本的な計画〉をつくることとしている。

 この国土総合開発計画を具体化する場合,(1)国が全国の区域について作成する全国総合開発計画,(2)都府県がその区域について作成する都府県総合開発計画,(3)都府県が二つ以上の都府県についてその協議によって作成する地方総合開発計画,(4)都府県が内閣総理大臣の指定する地域について作成する特定地域総合開発計画の四つの方式が定められている(2条)。

 こうして国土総合開発の基本法としての国総法が成立し,開発計画を策定する具体的な方式もつくられたのであるが,当時の日本の経済力と財政力の下ではここに掲げられている開発計画のすべてを展開することは不可能だった。この意味で,総合開発計画がどのような形で策定され,その中のどの部分が現実的な事業として推進され,国民経済や地域住民の生活にどのような結果をもたらすかは,その計画をとりまく政治経済的条件に規定されるのであり,日本の場合も,戦後の経済の発展段階に対応した形をとるのである。

国総法の成立後,国土総合開発審議会は〈国土総合開発計画の運営方針〉(1950年10月)を決定し,そこでは経済自立基盤の育成と治山治水の恒久対策による経済安定の基礎の確立を第一に掲げ,そのための総合計画に盛りこむべき具体的内容として,生産関係施設,国土保全および災害防除施設,交通通信および公共建設施設,厚生文化および観光施設の配置を,産業の適正立地と都市および農村人口の配分を適正に行うことを目標に進めていくものとした。

 この運営方針を受けた同審議会地域設定分科会は1951年3月に〈特定地域指定の基準〉を決定した。そのおもな内容は,〈特定地域は資源開発,産業振興,国土保全,災害防除等につき高度の総合施策により経済自立目標達成に効果の大きい地域について指定する〉という方針の下に,資源開発地域として,動力(電力,石炭,石油等),食糧,原材料などの開発効果の大きいところ,国土保全,災害防除地域は,風水害,土壌浸食,地盤沈下,高潮その他の災害が恒常的で大規模な地域で,〈災害防除施設が他の産業施設を兼ね,あるいは他の施設と複合して総合的に開発ができ,また保全,災害防除のため,開発,利用を抑制し,そのため特殊の施設または施策を必要とする地域について選定する〉とされている。

 ここで念頭におかれている開発方式は,1930年代のアメリカで進められたTVAであることはいうまでもなく,D.E.リリエンソールの著書《TVA--民主主義は前進する--》(1944)は早くも1948年に邦訳され,日本の国土復興のバイブルとなったのである。それとともに,戦時下の国内で進められてきた河水統制事業と,植民地で推進されてきた大型水力発電の技術が結合していったことにも注目する必要がある。

 〈特定地域〉の指定に対しては,全国42都府県から51の候補地が建設省に提出された。51年12月,その中から19地域が指定され(のちに対馬地域は離島振興法(1953公布)に移行),さらに57年に3地域が追加されたために,合計21地域がその開発計画の閣議決定をみている。日本の国土総合開発は,このように全国の都府県の開発競争を有効に組織し,その中から適切なものを選定して国全体の要請に応じていくという形をとりながら進んでいくことが多い。その理由の一つは,明治以降の中央集権的な行財政のしくみによって,国の開発地域に指定されることで,地方に中央の補助事業が多くいくという判断が働くからである。指定された地域は,電力,石炭,食糧などの資源開発地域と人口収容力や雇用の増大などの社会政策上の要請に基づく未開発後進地域に大別されるが,国総審は,現時点での国力からすれば,〈当面既存の生産設備の全面的稼働に寄与するように電源開発の促進に重点を指向し,国力の充実をまって漸次後進性の強い地域の整備と開発に重点を移していく〉(《付帯意見》)とした。かくして,特定地域総合開発計画の指定地域の総事業費は,9951億8700万円で,そのうち公的資金のみによるA種公共事業は5165億9600万円,公社公団と民間資金によるB種公共事業は4785億9100万円となっている。そして,61年時の事業の進捗率は,A種が64.5%,B種が110.2%,全体で86.5%であった。こうした点などから,特定地域時代の国土総合開発を,電力を中心とした資源開発方式にほかならないと呼ぶ人が多い。

国総法に先だって,北海道開発法(1950公布)がつくられ,最初の開発計画が1951年に策定されているが,都府県ならびに各地方の総合開発計画が登場しはじめるのは昭和30年代の前半からである。この中には二つの流れがあり,その第1は,東北開発促進計画(1958閣議決定)に始まり,北陸地方,中国地方,四国地方(和歌山県を含む),九州地方へと連なる地方工業化の促進に基づく地域格差是正型の総合計画である。東北地方の場合,東北開発促進法,北海道東北開発公庫法,東北開発株式会社法からなる東北開発3法が,1957年につくられ,公共事業に対する国庫補助率の引上げ,産業基盤の整備,誘致企業への融資などの道がひらかれた。

 第2の流れは,首都圏整備法(1956公布),〈首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律〉(1959公布)の制定や,日本住宅公団(1955),日本道路公団(1956)の発足にみるような,大都市圏の整備と開発を目的とした体制づくりである。首都圏整備法に基づいて策定された首都圏整備計画(1958)においては,関東6県と山梨県の一部の区域について,既成市街地,近郊地帯,市街地開発区域を設定し,交通路,人口の適正配置,産業や生活基盤の整備を行おうというものである。この時期には,新長期経済計画(1957策定,〈経済計画〉の項参照)に基づく経済成長路線が技術革新をふまえて軌道に乗っていく時期にあたっており,産業界でも〈コンビナート適地争奪戦〉が始まる。昭和20年代後半,財政赤字に苦しんだ府県では,総合開発計画や振興計画をつくって臨海工業地帯の造成を始め,ここに〈太平洋ベルト地帯〉構想が提唱されるようになった。〈地域開発は山から町へ移った〉といわれたのである。

国総法に基づく全国総合開発計画が閣議決定されたのは,1962年10月のことであった。この計画の策定に先だち,国総審は何度か準備作業を進めているが,本格的な策定作業に入ったのは国民所得倍増計画(1960年12月策定)が出されてからである。この計画は,計画実施上の留意点として,農業や中小企業の近代化,後進地域の開発促進,産業の適正配置の推進と公共投資の地域別配分の再検討等を掲げ,今後の経済成長のネックに社会資本の不足をあげている。この社会資本の充実策は,限られた資金の下でみだりに分散させるべきではなく,重点的集中的に用いて産業立地を誘導すべきだとする。具体的な産業配置は,四大工業地帯ならびに太平洋ベルト地域の中間地点とし,四大工業地帯の密集部への工場の制限,同地帯の中心部よりできるだけ距離を置いた近接および周辺地域への外延的拡大とすべきだとしている。これは社会資本の効率的な活用からみた国土総合開発のプランである。このプランに対して,太平洋ベルト地帯に属さない道府県からはげしい批判があり,1961年7月,〈国民所得倍増計画および同構想に関連して,早急に全国総合開発計画の作成が必要とされる状況にある〉との閣議了解がなされた。

 全国総合開発計画(のちに第一次全国総合開発計画と呼ばれることになるので,ここでは一全総と略す)は,国民福祉向上の見地から,生活基盤の整備については経済効果等にとらわれることなく,地域格差の是正に重点を置くが,道路,港湾,鉄道,用水等産業発展のための公共基礎施設は,地域格差是正の見地とともに,〈適切な産業立地体制を整える〉こともあわせて考慮すべきだとする。すなわち,都市の過大化を防止し,地域格差を縮小するために工業の分散が必要であるが,〈工業の分散に当たっては,国民経済全体からみて開発効果を最大にするよう考慮し〉〈工業の適正な配分は開発効果の高いものから順次に集中的になされなければならない〉というのである。このような趣旨から考え出されたのが,拠点開発方式であり,その具体化が新産業都市であった。

 拠点開発方式とは,既成の大集積地とそれ以外の地域の大規模な開発拠点を関連させ,その他の機能を有する中規模,小規模拠点を設定し,これらをじゅず状に連結させ,周辺の農林漁業にも好影響を与えるという考え方で,〈成長の極pôle de croissance〉と〈波及効果spread effect〉の組み合わさったものであった。この大規模開発拠点には,〈工業開発拠点〉と〈地方開発拠点〉が設定されていたのであるが,実際の開発計画においては前者が〈大規模工業開発地区〉という形でクローズアップされてくる。

 62年7月,新産業都市建設促進法が公布され,その指定基準が発表されると,全国の39府県が44地域の申請を出し,指定に対する陳情合戦を行っている。この指定に当たっては,既存の交通網に連結していて工場誘致等の計画が進んでいるところで,総合的な産業の立地条件および都市施設の整備が緊急に必要なところが優先された。それゆえ,太平洋ベルト地帯はもちろん日本海側でも当時の技術革新の花形であった基礎資材産業の担い手である臨海コンビナートの形成を目ざしたのである。新産業都市は15ヵ所指定され,その後同様の内容をもつ工業整備特別地域整備促進法(1964公布)がつくられ,それによる指定の6ヵ所(工業整備特別地域。略称,工特地域)を合わせて21ヵ所が大規模工業開発地域とされたのである。ここでもふたたび国の産業政策に対する地方自治体の誘致競争が行われ,国による地域の資源や行財政に対する統合化の過程が観察できる。新産業都市は,1960年から75年までの15ヵ年計画で完成することが目ざされていたのであるが,完成時点での点検によれば,工業出荷額で目標を達成できたのは5地域,人口では2地域しかなかった。そして,完成年次には基幹産業として誘致した基礎資材産業は石油危機やハイテク産業への産業構造の移行によって斜陽化しはじめていたのである。

〈一全総〉が実施されていく途上で,大都市圏への人口集中がますます進み,1965年国勢調査の結果,全国的に広い地域で,過疎現象(過疎・過密)が現れてきたことが判明した。また,大都市圏での過密の弊害や,全国各地での公害問題も大きな政治問題化した。こうしたなかで,68年4月,国総審は新たな全国総合開発計画の策定を提案した。69年5月に閣議決定された〈新全国総合開発計画〉(新全総または二全総と略称する)は,計画の目標を85年に置き,従来の拠点開発方式に代わって,全国を一つの視野におさめた中で過密と過疎の同時解決,全国土の有効活用を目ざした開発条件の全国的な整備と開発可能性の全国土への拡大などが目ざされたのである。そのための開発戦略としては,(1)日本列島の全域に効果を及ぼすネットワークの形成のための情報通信網,航空網,新幹線鉄道網,高速道路網,港湾等の国土の空間構造の基礎づくり,(2)産業規模の拡大,技術の集大成,大量生産方式を伴う大規模産業開発プロジェクトで,大規模な工業基地,流通基地,畜産開発基地,観光開発基地等,(3)環境保全の観点から推進される農山漁村や都市の保全計画,大都市の諸施設の再配置に関する大規模プロジェクトなどがある。

 ここでの中心となっている情報ネットワークの考え方は,コンピューターによる中枢管理機能の増大と通信技術の発達を軸に,東京を中心とした大都市の中枢管理機能の引上げによって,効率的に全国の地域開発を促進させうるとするものである。地域格差はすべて波及効果によって解決できるとみなされているのである。これは,新幹線鉄道網についても同様で〈一部遠隔地を除いた全国土が,東京,大阪の二大拠点に対してほぼ3時間程度の一日行動圏になる〉という。巨大工業基地の遠隔地立地については,85年には1965年に比べて鉄鋼4倍,石油5倍,石油化学13倍の生産規模が予想され,設備の大型化に伴って大規模な生産基地が必要となるため,西瀬戸内,むつ小川原,志布志湾などに基礎資材型工業基地をつくることにしている。このほか,地方都市や農山漁村については,広域生活圏を設定して全国的に都市的生活利便を確保するとともに,必要な場合には集落の統合移転を行うこととなる。

〈第三次全国総合開発計画〉(三全総)は,77年11月に閣議決定された。その中心をなす考え方は,〈定住構想〉であり,新全総における新しい生活圏の整備が立ち遅れたところから,〈大都市への人口と産業の集中を抑制し,一方,地方を振興し,過密過疎問題に対処しながら,全国土の利用の均衡を図りつつ,人間居住の総合的環境の形成を図る方式〉としてこの構想が選択されたと説明されている。そして,東京圏,大阪圏の人口はできる限り〈封鎖人口〉以下に抑制し,地方への人口の定着を図る必要がある。そのために住環境の整備をはじめとした総合的環境の整備を行い,定住基盤の確立を図るという。

 地方に自立的な生活圏構想を定着させ,地域の資源やローカル・エネルギーの開発と活用,文化的・歴史的伝統と個性の重視などの視点は,それまでの資源開発や産業立地を重視してきた高度成長経済のパートナーとしての国土総合開発計画の大きな転換であった。その背景には,石油危機(1973年秋)とそれに続く経済の混乱と戦後初めてのマイナス成長(1974年)という日本経済の高度成長から安定成長への転換がある。資源・環境問題がクローズアップされて,生活様式の見直しが求められ,地方に生活基盤の充実した自立的なミクロコスモスをつくり,安定成長下の居住の総合的環境(自然,生活,生産)を整備していくことが主要な課題とされた。それとともに,過密の抑制の一環として首都機能や大学の地方分散も主張されている。

 全国ネットワークや産業配置構想は,新全総を継承しているが,大規模産業立地における環境アセスメントや地域圏の情報格差の是正の必要などの言及がなされている。この時期は,〈地方の時代〉という言葉が盛んに用いられるようになり,地域での生活基盤の充実のためのさまざまな文化施設が作られた。人口の大都市圏への集中も1970年代後半にはストップする傾向にあった。

〈第四次全国総合開発計画〉(四全総)は1987年に閣議決定された。そのキー・コンセプトは,〈多極分散型国土の形成〉と〈交流ネットワーク構想〉であり,日本のハイテク産業の国際的な評価の高まりによって,技術革新・情報化・国際化が進み,中央と地方の格差が再び拡大しはじめた状況に対処することが求められていた。その背景には,日本の製造業におけるハイテク型技術革新への,日本的経営による適応の成功が挙げられる。地域開発面でもその現れとして〈テクノポリス〉計画の進行が始まっていた。

 テクノポリス計画は,1983年に成立した〈高度技術工業集積地域開発促進法〉によるもので,全国で26地域を指定している。その基準とされたものは,大都市圏以外の地域でハイテク企業の立地が進んでいるか誘致見込みがあり,空港や新幹線駅,高速道路などのアクセスがあること,生活基盤が整備された母市があり,大学や研究機関が存在することなどであった。産業構造がいわゆる重厚長大型から軽薄短小型に移行する中で,各県はエレクトロニクス,バイオテクノロジーなどの先端産業の誘致にしのぎをけずったのである。

 このような形で進行してきた工場の地方分散は,日本の工業生産力に大きく寄与し,それが管理中枢の集積力をかえって強め,1980年代半ばから東京一極集中が再び問題となってきた。四全総は地方における高齢化の進行,不況産業地域の雇用問題などへの対処のために地域社会の発展の担い手の確保や広域連携の必要性を主張する。しかしながら,計画策定の最後の段階で,当時の中曾根首相が東京の世界都市としての機能を損なわないように注文をつけ,次のような付帯意見が採択された。〈東京中心部等に立地する事務所の追い出しをねらいとすることなく,また我が国の国際的役割の発揮を阻害することのないよう十分配慮すること〉。この意見は,東京一極集中と地価のバブルの肯定にもつながるものとなり,90年前後の狂乱地価と投機ブームへとつながっていく。2000年を目標年次とした四全総は,高齢化する地方へのゆとりのある財政措置としてユニークな〈ふるさと創生事業〉(例えば市町村の大小を問わず1億円を交付)などに具体化されていくが,バブルの崩壊による日本の金融市場の混乱が地域の産業活動に波及していくのではないかと懸念される。

〈第五次全国総合開発計画〉(五全総)は,1998年閣議決定され,〈21世紀の国土のグランドデザイン〉と名付けられている。その目標年次は2010-15年とされ,地域の自立と多軸型国土を,多様な主体の参加と連携で実現していくとしている。地域の自立とは,人々の選択と責任のもとに,自然や文化,産業,雇用などの多様な生活空間をつくることであり,それを生かして世界の人々とのつながりを進めていくことである。また,多軸型の国土構造とは,国内の地域間連携のみならず,近隣諸国との国際的なネットワークの推進も射程に入れながら,北東国土軸,日本海国土軸,西日本国土軸,太平洋新国土軸をつくっていく考え方である。この国土軸の考え方の中には,地域間の連携が従来の工業立地や中枢管理といった経済システム中心に形成されてきたことへの反省があり,歴史や自然の中で長期的に育まれてきたネットワークの再生を,現代的なテクノロジーで見直していこうとする動きや,効率主義の道路や通信などのライフラインが阪神・淡路大震災において脆弱性を露呈したことへの反省から,第二国土軸などのバックアップ体制の必要性の主張などがある。

 計画の実現に向けての取組み方で特徴的なことは,多様な主体の〈参加と連携〉による国土づくりを提唱したことである。地域住民,ボランティア団体,民間企業などの活躍によって,行政が所管しなかった課題や創意工夫のあるきめ細かい問題の提起や解決に貢献することができる。国・地方公共団体は,情報を提供し,こうした活動を支援するとともに地域間の連携においては主体的な役割を持つとされている。
国土計画 →地域開発
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百科事典マイペディア 「国土総合開発」の意味・わかりやすい解説

国土総合開発【こくどそうごうかいはつ】

国土の自然的条件を考慮して,経済,社会,文化等に関する施策の総合的な見地から,国土を総合的に利用,開発,保全し,産業立地の適正化を図り,社会福祉を向上させること。日本ではその基本法として国土総合開発法(1950年)を制定,以来本格化した。この法律によりまず特定地域総合開発計画が作成され,基本計画である全国総合開発計画(全総)は1962年に策定された。この計画は地域格差の縮小と過密の弊害除去を地域的課題とし,計画達成の方策を〈拠点開発方式〉に求めた。すなわち工業開発地区(新産業都市工業整備特別地域)と地方開発都市を定めて重点的に整備し,東京,大阪,名古屋とこれらの拠点を有機的に連結,相互に影響させて連鎖反応的な発展を企図した。 しかし経済発展が予想以上に速く,国土の実情にそぐわなくなったため,1969年新全国総合開発計画(新全総)を決定した。新計画は全国新幹線鉄道網など機能の高い交通通信網で日本列島をおおい,大規模工業基地や酪農,観光など大規模開発プロジェクトを配置することにより,全国土の均衡ある利用を図ろうとするもので,1985年を目標年次としていた。しかし新全国総合開発計画は高度経済成長政策の延長上で考えられたため,公害防止,環境保全などの観点が不十分だった。1970年代初めになるとその欠陥が指摘され,国土利用計画法が制定されたこともあり,住民の反対と石油危機の影響を受けてほとんどが挫折せざるをえなかった。 そのため,新たに第3次全国総合開発計画(三全総)が1977年に閣議決定された。計画期間は1978年度を初年度とし,1990年度と2000年度が目標年次で,過疎過密に対処しつつ全国土の均衡ある利用,自然,生活,生産環境の総合的居住環境整備を基調とした。 さらに三全総を発展させて,2000年度を目標に国土づくりの指針を示す第4次全国総合開発計画(四全総)が1987年に閣議決定された。四全総は,三全総の定住圏構想をそのまま延長して,〈多極分散型国土の形成〉を基本目標としており,そのための具体策として交通網の整備に重点をおいている。 1998年の第5次全国総合開発計画(21世紀の国土のグランドデザイン)は,多軸型国土構造形成の基礎づくりを基本目標として打ち出した。 2005年の通常国会に上程された国土総合開発法改正案では,〈全総〉は〈国土形成計画〉と改められ,〈開発〉という用語を取り去って,成熟社会型の計画への変革が志向されており,とくに〈広域地方計画〉が重視されている。
→関連項目国土計画Jターン現象

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国土総合開発」の意味・わかりやすい解説

国土総合開発
こくどそうごうかいはつ

国土を総合的に利用,開発,保全し,同時に産業立地の適正化,国民福祉の向上をはかる計画,施策をいう。国の経済政策に地域的な要素を導入しようとする試みは,昭和初年の大量失業の時代,第2次世界大戦中の国土計画にもあったが,地域計画としての開発計画が本格的に取上げられたのは戦後である。日本政府は 1950年に「国土総合開発法」 (昭和 25年法律 205号) を公布したが,その内容は全国総合開発計画,地方総合開発計画,都府県総合開発計画,特定地域総合開発計画の4種から成り,ほかに北海道総合開発法,首都圏整備法,近畿圏整備法,中部圏開発整備法などがその後制定された。都府県計画と特定地域計画は 51年頃から,地方開発計画は 56年以後に策定された。全国総合開発計画は 62年 10月になって初めて成案をみた。その後内外の環境の変化に対応して,新全国総合開発計画 (新全総,1969) や第3次全国総合開発計画 (三全総,77) ,第4次全国総合開発計画 (四全総,86) が策定された。

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世界大百科事典(旧版)内の国土総合開発の言及

【地域開発】より

…(1)多目的ダムを中心とする河川総合開発方式 この方式は戦前から行われ,戦後1950年代にTVAを模範として行われた。1950年〈国土総合開発法〉が立法されたが,これに基づく全国総合開発計画の策定は62年まで進まなかったので,当時の戦災による産業の荒廃,植民地の喪失と引揚者,兵士の大量の引揚げによる失業の増大による地域問題に対処するために,同法による特定地域総合開発計画が行われた。この計画には42都府県から総計51の候補地が立候補したが,次の21地域を指定した。…

※「国土総合開発」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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