国民民主党(読み)コクミンミンシュトウ(英語表記)Narodowa Demokracja

デジタル大辞泉 「国民民主党」の意味・読み・例文・類語

こくみんみんしゅ‐とう〔‐タウ〕【国民民主党】

平成30年(2018)5月、民進党希望の党が合流して結成された中道政党。平成31年(2019)自由党を吸収。令和2年(2020)9月に分党し大半の議員が立憲民主党に参加。残った少数議員のみで存続する。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「国民民主党」の意味・わかりやすい解説

国民民主党 (こくみんみんしゅとう)
Narodowa Demokracja

19世紀末~20世紀初めにポーランドナショナリズムを指導した政党。ふつうエンデツィアEndecjaと呼ばれる。一月蜂起(1863)の敗北とその後の厳しい弾圧に対する反省から,1870年代を風びしたポジティビズムも,80年代に入って蜂起後の世代が育ってくるとともに,その非政治的な姿勢が批判されるようになった。そのような風潮のなかで87年,Z.ミウコフスキら一月蜂起の生残りたちがスイスでポーランド連盟Liga Polskaを結成し,再び独立運動を再開するよう呼びかけた。ドモフスキら若い世代はこの呼びかけに対して,同年ポーランド国内で活動するための下部組織ポーランド青年同盟Związek Młodzieży Polskiejを結成した。しかし遠くスイスにあってポーランド連盟が的確な指令を出すことは不可能であり,93年ドモフスキの主張で本拠地はポーランド国内に移され,名前も民族連盟Liga Narodowaと改められた。あくまでも民族連盟は秘密組織とされ,公然と政治活動を行う政党として97年に国民民主党が結成された。その綱領によれば,ポーランド分割の事実にもかかわらず,ポーランドは一つの国と考えられるべきであり,独立が最終的な活動目標とされた。また独立運動は農民が担うべきであるとし,従来のようにシュラフタ(貴族)だけにその役割を期待することに反対した。主たる活動の舞台としてロシア領ポーランドが選ばれ,そこに住む農民のあいだで民族意識を啓蒙する運動が展開された。運動の成果は1905-07年のロシア革命の時期に皮肉な形をとって現れてくる。つまり革命の過程でロシアのツァーリ体制に変革の可能性が現れてくると,ドイツの急激な勢力伸張に脅威を感じたドモフスキはロシアとの妥協を考え,実現不可能な独立よりも自治を要求すべきであると主張するようになった。農民たちはこれを民族連盟の裏切りと考え,1907-08年につぎつぎと民族連盟から離れていった。かわって彼らが支持したのは,古い伝統に忠実に武装蜂起を準備していたJ.ピウスーツキである。18年にポーランドが独立したとき,ポーランドの政治勢力はドモフスキの支持勢力とピウスーツキの支持勢力に二分された。もっとも,ドモフスキの影響力は思想的な側面に限られ,国民民主党が政権に参加しえたのも23-26年の議会制の時期のみである。民族のエゴイズムを肯定し,ユダヤ人ウクライナ人に対して同化か排除しか認めなかった偏狭なナショナリズムは,社会主義体制をとる第2次世界大戦後のポーランドにも受け継がれている。ことさら無視されてはいるが,それほど国民民主党が現代のポーランドに残した遺産は大きい。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「国民民主党」の意味・わかりやすい解説

国民民主党(2018年結成)
こくみんみんしゅとう

日本の政党。旧希望の党と旧民進党のそれぞれ一部が合流して、2018年(平成30)5月に発足した旧国民民主党が前身である。2020年(令和2)に解党し、大半のメンバーが立憲民主党へ流れたため、残った玉木雄一郎(1969― )ら少数メンバーで再発足した少数野党である。略称は国民だが、新・国民民主党とよばれることもある。綱領で「穏健保守からリベラルまでを包摂する国民が主役の改革中道政党」を掲げるが、リベラル派議員の多くが立憲民主党へ流れ、改革保守の色彩が濃い。外交・防衛では、憲法解釈変更や自衛権拡大に反対ではあるが、現実的な安全保障政策が必要との立場をとり、日米同盟重視から日中韓を軸とするアジア重視へのシフトを標榜(ひょうぼう)している。革新的イノベーションによる経済成長、地域主権改革、原子力エネルギーに依存しない社会の構築を掲げ、消費増税には慎重で、政府の再配分機能の充実を訴えている。党本部は東京都千代田区平河(ひらかわ)町。2020年末時点の所属国会議員は16人(衆議院7人、参議院9人)、代表は玉木で、元外相の前原誠司(1962― )のほか労組出身議員が加わった。

 2017年の衆議院議員選挙を控え、東京都知事の小池百合子(1952― )が改革保守主義を掲げる希望の党を立ち上げ、民進党は、護憲・リベラル系(旧立憲民主党)、改革保守系、無所属議員グループなどに分裂した。森友(もりとも)・加計(かけ)学園問題などで政権批判が強まるなか、2018年、野党再結集を目ざし、連合(日本労働組合総連合会)が音頭(おんど)をとって、旧民進党と、希望の党から分党した国民党の両党が合流して旧国民民主党を結党した。その後、野党第一党の旧立憲民主党の陰で、支持率が低迷。2019年の参議院議員選挙後に旧立憲民主党との合流協議を進めたが難航し、結局、2020年に旧国民民主党は事実上分裂。所属議員の大半が立憲民主党へ合流したため、新・国民民主党は所属国会議員13人の少数政党として再スタートした。なお法令上は旧・国民民主党とは別の、新規設立政党である。

[矢野 武 2021年3月22日]


国民民主党(1950年結成)
こくみんみんしゅとう

1950年(昭和25)4月28日、吉田茂内閣との連立に反対する民主党の野党派と、国民協同党、新政治協議会が合同して結成した保守政党。結党時の所属議員は衆・参あわせて110名、最高委員長苫米地義三(とまべちぎぞう)、幹事長千葉三郎。同党は社会連帯協同主義を基調とする綱領を掲げ、吉田内閣と一線を画する立場をとっていたが、講和独立後の保守再編の機運のなかで1952年5月改進党に合流した。

[吉田健二]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国民民主党」の意味・わかりやすい解説

国民民主党[ポーランド]
こくみんみんしゅとう[ポーランド]
Stronnictwo Narodowo-Demokratyczne

ポーランドの民族主義政党。 1883年に結成された「ポーランド連盟」 (1893年に「国民連盟」と改称) を前身とし,97年にその大衆組織として発足。 1919年に国民農民同盟,28年に国民党と改称した。この政治的潮流は一般に国民民主主義で総称され,そのポーランド語略称「エンデツィア」で知られている。おもな指導者は R.ドモフスキ,W.グラプスキ,M.セイダ。会議王国 (ポーランド王国) と呼ばれたロシア領ポーランドで発展し,1905年以降オーストリア領,09年以降プロシア領でも勢力を伸ばした。民族ブルジョアジーの利益を擁護したが,傘下組織として 1899年に農民啓蒙協会,1905年に国民労働者同盟を発足させ,民族主義的な立場から農民,労働者をも運動に引入れるよう努めた。しかし大きな成功は収めえなかった。当初は西ヨーロッパ的な自由主義,民主主義の理念を標榜したが,05年以降権力主義や反ユダヤ主義のような非合理的な傾向を強めるようになり,対外政策においては現実政治の立場から反ドイツ・親ロシア (ロシア革命後は親フランス) 主義をとった。 19~26年には多くの政府に首相,閣僚を送ったが,26年の J.ピウスツキクーデター後,政権に不参加。 34年議会民主主義を擁護する老人派とファッショ的な青年派とに分裂。第2次世界大戦中老人派は W.シコルスキ政府 (亡命政府) に参加。青年派は戦中および戦後しばらくの間,反ドイツ・反ソの抵抗運動を行なったが,戦後政党活動を禁止された。

国民民主党
こくみんみんしゅとう

日本の政党。1950年4月28日,民主党野党派と国民協同党,新政治協議会が合同して発足した。1950年初め,吉田茂民主自由党が民主党連立派を吸収し自由党を発足させたのに対抗し,保守左派的政党として結成。最高委員長は苫米地義三,幹事長は千葉三郎,のち三木武夫サンフランシスコ講和会議(→対日講和条約)参加をめぐり国民民主党党内は論議が沸騰,苫米地委員長は「講和条約には調印するが,日米安全保障条約には調印しない」条件で全権団の一員となった。講和後同党は,新政クラブ立憲民政党系)の追放解除者を迎え,また農民協同党などを集め,1952年2月8日改進党を結成して解党した。(→自由民主党

国民民主党[エジプト]
こくみんみんしゅとう[エジプト]
al-Hizbal-Watani al-Demuqrati

エジプトの政党。 1978年アンワル・サダト大統領の主導のもとにアラブ社会主義者連合を解体し,政権政党として設立された。サダト大統領自身が党首につき,ムハマド・ホスニホ・ムバラクが副党首となる。基本的な政治路線は中道リベラル。 81年 10月サダト大統領が暗殺され,国民投票の結果ムバラク副大統領が大統領に昇格した。 84年5月の総選挙では総議席 448議席中 391議席を獲得。 87年4月の総選挙では 349議席,90年 11月の総選挙では 348議席を得た。 93年 10月大統領の信任を問う国民投票でムバラク大統領は3選を果した。だが 95年イスラム過激派のイスラム団が反ムバラク運動を展開し,同年6月にはムバラク大統領の暗殺未遂事件が起った。同年 11月の総選挙ではイスラム過激派封じ込め作戦を展開し 416議席を獲得,一党支配体制を確立した。

国民民主党[スリナム]
こくみんみんしゅとう[スリナム]
Nationale Democratische Partij

略称 NDP。スリナムの政党。 1987年の憲法改正に伴う総選挙を前にデジ・ブテルス将軍の支持政党として結成された。ブテルス将軍は 80年にクーデターを起し,以降国家軍事評議会の議長についていた。 87年 11月に行われた総選挙では,当初の予想に反してわずか3議席しか獲得できず,野党3党の民主開発国民戦線に大敗。ブテルス将軍は 90年 12月に再びクーデターを起し政権を掌握。 91年5月の総選挙でも再び民主開発国民戦線に多数派を握られるが,NDPは3倍増の 12議席を獲得した。 96年5月の総選挙でも 16議席と伸び悩むが,同年9月の大統領選挙の決選投票でシェール・A・ウェイデンボス副党首が国民戦線の候補を破り大統領に就任した。

国民民主党[ネパール]
こくみんみんしゅとう[ネパール]
Rashtriya Prajatantra Party; National Democratic Party

略称 NDP。ネパールの親国王派の政党。 1992年1月,旧パンチャーヤト勢力が中心となり結成。 95年9月にはネパール会議派と連立内閣を組んでデウバ政権を支えた。 97年にはデウバ政権が倒れたことにより,統一共産党と組みチャンド NDP総裁を首相とする連立内閣を形成。同年 10月にはチャンドに代りタパ総裁が首相となったが,その際チャンド派議員は離党して新国民民主党を結成。 98年4月にはネパール会議派が政権を奪還し,コイララが5度目となる政権を成立させたが,これにはチャンド派の新国民民主党が支持を表明している。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「国民民主党」の意味・わかりやすい解説

国民民主党【こくみんみんしゅとう】

1950年日本民主党の野党派と国民協同党および新政治協議会が合同して結成。社会連帯の理念と協同主義を基調とし,吉田内閣に対し国民的野党を唱えて対立した。1952年新政クラブ,農民協同党等と合同して改進党を結成。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

知恵蔵mini 「国民民主党」の解説

国民民主党

日本の政党。2018年5月7日、前年の第48回衆議院議員総選挙を機に分裂した民進勢力の再結集を目指し、民進党と希望の党が合流して発足した。しかし、民進党では18年5月7日午前までに岡田克也元代表や野田佳彦前首相などが離党届を提出、希望の党では樽床伸二元総務相、大串博志衆議院議員などが無所属になると表明し、両党からの参加者は約6割の60人程度にとどまる見込みとなった。党首は同年9月の代表選で正式に選出するまで、暫定的に民進党の大塚耕平代表と希望の党の玉木雄一郎代表が共同代表を務めるとしている。

(2018-5-8)

出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「国民民主党」の解説

国民民主党
こくみんみんしゅとう

第二次世界大戦後の保守政党(1950〜52)
日本民主党の野党系と国民協同党などが合同して成立。自由党内閣に対して野党の立場をとったが,党勢不振で分裂。1952年2月,農民協同党・新政クラブ・衆院第一クラブと合同し,日本改進党を結成した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の国民民主党の言及

【国民協同党】より

…中央委員長となった三木武夫は,中央政治連盟の構想を発表,保守派の右と社会党の左の対決を避ける中道政治路線を提唱したことがある。50年4月民主党野党派と結合し,国民民主党(1952年,新政クラブ,農民協同党と合同し改進党となる)を結成した。【高橋 彦博】。…

【民主党】より

…犬養ら連立派の民自党との合同は民自党内の犬養拒否のため紛糾したが,50年3月犬養を除いて民自党に合流した。連立反対派は民主党一本化を主張,それに賛成して閣僚を辞任した木村,稲垣らとともに国民協同党(委員長三木武夫)との合同を進め,新政治協議会等も糾合,4月28日国民民主党(1952年2月改進党となる)を結成した。【神田 文人】(2)1954年11月自由党鳩山派,改進党,日本自由党(三木武吉ら8名)が合同して結成した政党。…

※「国民民主党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android