一乗院(読み)いちじょういん

精選版 日本国語大辞典 「一乗院」の意味・読み・例文・類語

いちじょう‐いん ‥ヰン【一乗院】

奈良市登大路町にあった興福寺の塔頭(たっちゅう)で門跡寺。天祿元年(九七〇)定昭の創建。摂関家の子弟が入室し、大乗院と交互に別当に任じた。明治維新後、廃寺

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デジタル大辞泉 「一乗院」の意味・読み・例文・類語

いちじょう‐いん〔‐ヰン〕【一乗院】

奈良興福寺門跡もんぜき寺院。天禄年間(970~973)に定昭じょうしょうが創建。大乗院と交互に興福寺別当を務めた。明治維新により廃寺。

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日本歴史地名大系 「一乗院」の解説

一乗院
いちじよういん

[現在地名]秋田市川元松丘町

川尻上野の東光かわしりうわののとうこう寺跡地にあり、真言宗智山派、吉田山と号し、本尊は不動明王。

天正一八年(一五九〇)佐竹義宣が水戸吉田の天台宗薬王やくおう院の住持を追放し、佐竹の庶子家である山入義盛の次男弘喜を薬王院の別当にしたのが一乗院の始まりと伝える(水戸市史)。しかし一乗院が知られるのは、元和七年(一六二一)大八幡おおはちまん別当社務を継いだ時からである。寺地は寛文三年(一六六三)外町屋敷間数絵図(秋田県庁蔵)によれば、てら(現大町三丁目・四丁目西側)に東西六六間半、南北六二間。寛永四年(一六二七)の窪田配分帳には寺領二〇〇石とあり、藩主菩提寺天徳てんとく寺に次ぐ格式をもっていた。

大八幡は一乗院の道場内に鎮座していたが、貞享五年(一六八八)三月初めて一乗院の寺内に社殿が建立された。

一乗院
いちじよういん

[現在地名]那珂町飯田

飯田いいだのほぼ中央に位置し、境内には銀杏・杉の巨木が茂る。法満山千手寺と号し、真言宗智山派。本尊は不動明王。

寺伝によると至徳三年(一三八六)石沢いしざわ(現大宮町)開基開山は快範恵海という。恵海五世の法孫海義が太田おおた(現常陸太田市)稲木いなぎに移して山吹一乗院と号した。「新編常陸国誌」に「海義ハ佐竹ノ支族小田野大和守義正ノ男ナリ、始メテ太田ノ山吹一乗院ヲ開基ス」と記される。天正一八年(一五九〇)水戸吉田よしだに移り、元禄一三年(一七〇〇)末寺の久福きゆうふく寺を廃して現在地に転じた。「水府地理温故録」の藤柄ふじがら(現水戸市)の項には一乗院について「開山は海義と言し僧成べし。

一乗院
いちじよういん

[現在地名]熊谷市上之

国道一七号熊谷バイパスの南に位置する。真言宗智山派、光明山無量寿むりようじゆ寺と号し、本尊は阿弥陀三尊。付近の小字を秋葉あきばということから、成田助広の庶子秋葉七郎ゆかりの寺といわれ、開山栄泉は建長四年(一二五二)の没(風土記稿)。文和二年(一三五三)以降の聖教史料が多数残されており、その多くは下野鶏足けいそく(現栃木県足利市)の意教流のものである。鶏足寺世代血脈(鶏足寺蔵)によると、慈猛良賢の弟子に永仙なる僧がいるが、良賢は意教頼賢の高弟で建長八年頃に受法しているため、永仙と当寺の開山栄泉はやや年代が合わないが、永仙から一〇代後の弘円も前掲世代血脈に「武蔵成田一乗院」と記され、意教流の古い末寺であった。

一乗院
いちじよういん

[現在地名]高野町高野山

本王ほんのう院の南、千手院せんじゆいん谷の西側にあり、別格本山。本尊は愛染明王。学侶方の一院で、文明五年(一四七三)の諸院家帳は善花の開基とするが、「高野伽藍院跡考」は化千(化仙)上人の住居跡とする。化千は覚心と同時代(鎌倉初期)の人物とみられ、院号は化千が千手堂を再興した時、常に一乗妙典を読誦していたことにちなむといわれる。なお別に天元二年(九七九)金剛峯こんごうぶ寺座主となった定昭の開基とする説(高野春秋、本朝高僧伝)もある。

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改訂新版 世界大百科事典 「一乗院」の意味・わかりやすい解説

一乗院 (いちじょういん)

もと奈良市にあった興福寺の門跡寺院。法相宗。10世紀の末ころに興福寺別当定昭(じようしよう)が興福寺西御門の北東部に建立した子院で,長講堂と称し,大日如来,阿弥陀仏像を安置していた。定昭は法相教学を仁斅(にんこう)に,寛空に灌頂をうけ,吉野の金峯山寺検校,東寺長者にもなり,970年(天禄1)に興福寺別当に補任された。定昭は常に法華一乗に傾倒し,往生極楽を欣求していたといい,一乗院の名もこれに由来する。関白師実の子覚信が第5代の院主となって後,摂関家の子弟の入寺相承となり,いわゆる院家(いんげ)とか門跡と称せられるに至った。1180年(治承4)の平重衡の兵火で,興福寺諸伽藍と共に焼亡したが,いち早く再興され,89年(文治5)に興福寺南円堂本尊不空羂索観音像が仏師康慶によって作仏された時には一乗院内に仏所が設けられた。五摂家分立以後は,主として近衛家が本所となって管領したが,南北朝ころに後醍醐天皇の皇子玄円が入寺し,近世に至って後陽成天皇の皇子尊覚が院主となって以来,法親王が相承して宮門跡となった。明治維新に及んで院主応昭は還俗し水谷川忠起と称した。

 1297年(永仁5)に大和国に散在する院領63ヵ所に地頭職が置かれたのは,一時的ではあったが,幕府が一乗院の威勢に頼ろうとしたことをうかがわせる。中世における一乗院は大乗院尋尊をして〈大和国ハ三分二過ハ一乗院領也〉といわしめたほどの院領をもち,興福寺筆頭の勢威を保持した。大乗院との間にしばしば紛争をひき起こし,15世紀ころには一乗院門徒と称せられた興福寺学侶の院家は11ヵ院,南都(奈良)には一乗院郷が成立した。また,北市(きたいち)を経営し,菅笠・索麵・布・薬・土器座など多くの座を有していた。1812年(文化9)に講堂などが焼失。宸殿は,近代には奈良地方裁判所として使用されていたが,1962年に唐招提寺に移建,開山堂として改修された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「一乗院」の意味・わかりやすい解説

一乗院
いちじょういん

10世紀末に創設された興福寺を代表する門跡(もんぜき)。関白藤原師実(もろざね)の子覚信(かくしん)(1065―1121)以後、摂関家の子弟が入室する門跡として発展、鎌倉時代には花山(かざん)院、理趣(りしゅ)院などの院家もその下に包摂され、近衛(このえ)家出身の門主(もんしゅ)によって統合され大乗院と並ぶ巨大な組織を形成した。鎌倉中期の坊官僧行賢(ぎょうけん)の記した『簡要類聚鈔』には一乗院の歴代門主・末寺・荘園・年中行事が記され、この時期の一乗院を知るうえでの一級史料である。近世には1492石の寺領を有し親王入室の門跡としてその権威を保ったが、明治維新後に門主が還俗し春日(かすが)社大宮司(だいぐうじ)となるに及んで廃絶した。現在、興福寺に所蔵される三会定一記(さんねじょういつき)は一乗院に伝来したものである。

[稲葉伸道]

『大山喬平著「近衛家と南都一乗院」(岸俊男教授退官記念会編『日本政治社会史研究 下』所収・1985・塙書房)』

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世界大百科事典(旧版)内の一乗院の言及

【大和国】より

…ここで春日社興福寺を盟主とする大小社寺の領主連合組織が完成,治外法権の社寺王国(宗教王国)大和が出現した。興福寺の独走には東大寺や多武峰(とうのみね)(天台宗延暦寺末寺)が不満であり,やがて新興地侍らが将軍家御家人(地頭)あるいは悪党として反体制活動を始めたり,興福寺の一乗院大乗院両門跡の対立抗争が生ずるにいたった。しかし,社寺王国化にともない,南都仏教が復興,社寺の修造や復旧が進んだ。…

※「一乗院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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