城村(読み)かつらぎむら

日本歴史地名大系 「城村」の解説

城村
かつらぎむら

[現在地名]喜連川町葛城

喜連川村の南東、あら川流域の河岸段丘上に位置し、関街道(福原経由)が通る。地名の由来は往時葛城宿禰という者が住みついたため、いつしか葛城村とよぶようになったという(喜連川町誌)。中世は喜連川塩谷氏の所領であったが、江戸時代に入り喜連川藩領となり、幕末に至る。地名は永正七年(一五一〇)六月二〇日の下野国先達注文(米良文書)に「かつら木地蔵院門弟」とみえる。塩谷郡に属し、慶長年中(一五九六―一六一五)の豊臣給分村高調では五六一石(喜連川町誌)。寛永一〇年(一六三三)平三郎へいさぶろう村が分離独立したため、慶安郷帳では田高二五四石余・畑高一七五石余。元禄郷帳では五六一石余、旧高旧領取調帳では九九五石余。


城村
じようむら

[現在地名]佐伯市長谷はせ 上城かみじよう下城しもじよう川原かわばる

堅田かたた川分流大越おおこえ川下流域左岸に位置。「栂牟礼実録」には、大永七年(一五二七)大友義鑑に攻められ栂牟礼とがむれ城主の佐伯惟治が憤死したのちも同城にとどまった忠臣六八名中に城村弥九郎・同弥大夫の名がみえる。慶長六年(一六〇一)一二月一〇日の毛利高政知行宛行状案(毛利高棟文書)に「城村」とみえ、村内一〇〇石ほかを森織部(佐伯藩家老戸倉行重)に宛行っている。


城村
じようむら

[現在地名]三浦市三崎みさき五丁目

北から東は二町谷ふたまちや村・三崎町に接し、南から西は海である。天保国絵図に三崎城村とあるが、近世を通じて郷帳類に現れない村である。「風土記稿」によれば、間宮造酒丞信高は甲州武田氏の家臣であったが、武田家没落後徳川家康に仕え、水主三〇人を預かり、三崎の海を守った。そのため当地を屋敷地とし、要害を構えたので村名が起こったという。信高の子孫が江戸へ移った後、水主たちは漁猟をもって生活したが、その後も毎年間宮家へ金を献じたという。「城村之旧記」によると、正保年間(一六四四―四八)和泉国から呑海屋長左衛門・星野権兵衛・新明八左衛門の三人の魚商が移住し、小買の方法で買取り江戸に送ったともいう。


城村
じようむら

[現在地名]佐倉市城・藤治台とうじだい

石川いしかわ村の南に位置し、東金とうがねに至る道が通る。万治三年(一六六〇)の印幡郡印東庄六崎ノ内城村地詰帳(佐倉市保管文書)があり、高二五九石余、名請人数二七。屋敷は城城跡の裾部に立地する城之下じようのしたに一二、金部田かなべた城跡の裾部に立地する「かなはた」に一一、「川つら」に二、「たいこんやつ」に二であった。現在も城部田じようべたと金部田とに分れる。なお同帳に六崎むつさきノ内とあるように、もとは六崎村・石川村と当村は一村であったといわれる。


城村
しろむら

[現在地名]所沢市城・新郷しんごう東所沢ひがしところざわ三―四丁目

本郷ほんごう村の東にあり、南は北東流する柳瀬やなせ川を隔てて多摩郡清戸下きよとした宿(現東京都清瀬市)。村名は戦国期に八王子城主北条氏照の出城たきの城があったことによるとされる。入間いるま山口やまぐち領に属した(風土記稿)。田園簿には城本郷とあり、旗本貴志領。延宝六年(一六七八)の御鷹場絵図(徳川林政史研究所蔵)には城村とある。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。以後幕末まで同領。寛政二年(一七九〇)の村明細帳(長倉家文書)によれば高六九石余、反別田二町八反余・畑二三町七反余。


城村
ぐしくむら

[現在地名]名護市ぐすく一―二丁目・みなと一丁目・名護なご

名護なぐ間切の中央部に位置する。城村の故地は名護なごグスクの西斜面下のイジグチ付近とされ、明治初年以降に下方の海岸低地に移り住んだ(名護六百年史)名護グスク遺跡群は古琉球期から近世にかけての遺跡で、古琉球における名護按司の拠点であった。絵図郷村帳にみえる名護間切の「城村」は当村か。近世を通して名護なぐ村に属し、名護三箇の一つ。


城村
じようむら

[現在地名]大和郡山市城町

富雄とみお川流域、矢田やた村東方に立地。慶長郷帳では村高七四四・二八石。領主は中井大和(正清)。寛永郷帳では村高七四一・七二六石、うち五〇〇石は中井五郎助、二四一・七二六石は郡山藩(本多政勝)領。このことについて同郷帳は「内弐百四拾一石七斗弐升六合」が奈良坂村(現奈良市)を幕府領とするかわりに城村の一部と外川とがわ村が郡山藩(本多政勝)領に編入されたことを記す。


城村
じようむら

[現在地名]芦原町城

北潟きたがた湖の西方、日本海に近い台地上に立地する。当村より西方の海岸近くにある新家しんけ村は枝村であった。当村名は「越前国城蹟考」などで木曾義仲の城と推定されている城のあったことに由来すると伝える。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「嶽方坪江下郷」に含まれていた。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となるが、文政三年(一八二〇)福井藩領に戻る。慶長三年の検地高は一二五・八石で、面積は田方二町六反余・畑方六町七反余と畑地が多く、上田・上畑などは少なかった(「古検帳寄写」土屋家文書)


城村
じようむら

[現在地名]伊万里市山代町やましろちよう

竹の古場たけのこば(現東山代町)より北西へ続く西にし岳山地の伊万里湾斜面を占め、集落は標高五〇―一五〇メートルの急勾配に階段状に立地。慶長絵図に「城村 脇野ノ内」とある。貞享四年(一六八七)改の郷村帳では「一、城村 城ノ峯村 成石村」とある。

この一帯は天正四年(一五七六)山代貞(虎王丸)が竜造寺軍を迎撃した古戦場で、腹乾はらほし斬寄きりよせなどの地名が残る。

海岸の鳴石坂田搦なるいしさかたがらみは干拓地だが、天明四年(一七八四)の永尾家史料に「成石浦搦願有之候ニ付、隣村支有無取調として六府方下目附峯慶助・辻藤五郎楠久村被相越(中略)城村庄屋村役、楠久村右同支無之手形を取」とある。


城村
じようむら

[現在地名]宇佐市城井じようい

今井いまい村の西に位置し、西は吉松よしまつ村、北は森山もりやま村。「宇佐郡地頭伝記」によると、中世に肥後国山鹿郡じよう(現熊本県山鹿市)の城氏が当地に移住して勢力を振るったといい、村名も同氏に由来するという。天文二二年(一五五三)八月一六日の吉村通信知行打渡状(吉村茂助文書)に「高家郷之内、はまかた宮成殿御領大家名ママ之事、我ら取次役職所、城掃部先知行之内」とみえる。


城村
じようむら

[現在地名]中伊豆町城

大見おおみ川右岸の河岸段丘上にある村で、西は関野せきの村。天文一二年(一五四三)一〇月二三日の北条家朱印状写(佐藤文書)に「豆州大見之内横山」とあり、北条氏は横山よこやまの竹木・菜園田畠を当地城富じようふ院に安堵している。横山は城の字名。文禄三年(一五九四)に検地が行われ、検地帳に「大見之谷城村」と記されていたとされる(増訂豆州志稿)。延宝四年(一六七六)の高四六二石余(「伊豆国中拾組高寄帳」石橋家文書)。元禄(一六八八―一七〇四)初年新田高一六石余が加わった(元禄初年高帳)。江戸時代初期は幕府領。元禄一一年旗本戸田・松波・小出・岡野・猪子の五給となる。


城村
じようむら

[現在地名]小国町黒淵くろぶち

中原なかばる川と蓬莱ほうらい川に挟まれ、標高約四六〇メートル。西は黒淵村、東は若宮わかみや村に接する。当村の近世の小村である古地ふるじ村は、文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)では「かふりかた」に含まれ、「一所ふるいち 一所かきのき」とある。また同史料の「北里分」には「一所むろ薗」とある。柿木かきのき室園むろぞのはともに近世には当村の小村とされ、銭・豆を負担している。慶長国絵図に村名がある。北里手永に属し、元禄一二年(一六九九)の北里手永高反別帳では高三六六石四斗余、うち本村二四八石四斗余・古地村一一八石で、男一五六・女一一七、竈数四〇、馬二三・牛五七とある。


城村
じようむら

[現在地名]富山市城村・城村新町じようむらしんまち

いたち川右岸の平坦地にあり、南は西番にしのばん村。集落の西を立山道が通る。元和(一六一五―二四)頃に北八川きたはちかわ村が分村した八ヵ村の一つで、かつてこの地に木村源兵衛の居城八川城があったのが村名の由来という(越中志徴)正保郷帳では高六一六石余、田方三五町余・畑方六町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五八三石、免三ツ三歩、小物成は野役二五匁・鱒役四匁・鮭役一匁・鮎川役四匁(三箇国高物成帳)。その後小物成に七木運上役七匁余が加わったが、草高・免にほとんど変化はなかった(嘉永六年「太田組高免等手帳」杉木家文書など)


城村
しろむら

[現在地名]甘木市城

三奈木みなぎ村の東、おにじよう山の西麓に位置する。下座げざ郡に属し、東は上座郡黒川くろかわ村、南は同郡須川すがわ(現朝倉町)。白村とも書いた(慶長石高帳など)。江戸時代を通じて福岡藩領。小早川時代の指出前之帳では城村の田一一町九反余(分米一三二石余)・畠四町二反余(分大豆二二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高二五九石余、うち大豆七三石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高二七三石余・反別二四町一反余、家数二〇・人数一八三(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も二七三石余。


城村
じようむら

[現在地名]山鹿市城

北東にひこ(三五五・一メートル)がそびえ、東部を岩野いわの川が南流、北東は津留つる村、南は保柳ほやなぎ村、西は平山ひらやま村・小群おむれ村と接する。村の東北部の崖沿いに、菊池氏三老臣家の一つ城氏の代々の居城であった城村城があり、村名も同城にちなむ。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳では高八八一石七斗余、うち田五三九石四斗余・畠三四二石二斗とある。近世は山鹿手永に属する。「国誌」に高八二二石余、うち上城四四六石四斗余・下城三八六石五斗余とあり、小村に下古閑がある。「肥集録」にはほかに船尾口・保柳口が、上城村には堂前が記される。文政九年(一八二六)の山鹿手永書付では城村は竈数四五・人数二三三、馬三七、商札一・馬口労一・給人五。


城村
じようむら

[現在地名]蓮田市城・椿山つばきやま一―四丁目・西城にしじよう

白岡しらおか台地の中央部西端にある。元荒川の左岸に位置し、北は新宿しんしゆく村、西は同川を隔てて下閏戸しもうるいど村。村内に元荒川の枝流がありふる川と称されるが、村内で再び元荒川に合している。小名の丸城まるじようは一名を城といい、古くは城のあった所と伝える。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば同藩領で、田高七石余・畑高六〇石余。延宝八年(一六八〇)の家数一五(うち本百姓一〇)、人数一一五(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)


城村
ぐしくむら

[現在地名]大宜味村謝名城じやなぐすく

東シナ海の海岸線から少し離れた大川川(ウッカーガー)の中流域の丘陵上に立地し、西は根謝銘いんじやみ村。根謝銘ねじやめグスクがある。間切所属の変遷は塩屋さー村と同じ。絵図郷村帳に国頭くんじやん間切「城村」とみえ、琉球国高究帳では同間切「城村・きどか村」と併記されて高付されている。天保二年(一八三一)の大宜味間切城村人数改帳の一部が「大宜味村史」資料編に収録されている。


城村
じようむら

[現在地名]平村祖山そやま

杉尾すぎお村の北東、庄川左岸川縁のわずかな平地に位置し、東と南には断崖が迫る。対岸の祖山村へは籠渡しで通じる。ただ一軒の村は正保郷帳に高五石余、畑方のみで三反余とある。明暦二年(一六五六)には免四ツ二歩二厘余、同年以後、納所金子一両一分余・塩硝役金子三分余・手上金子二分余、蝋・漆・蓑・紙役金子二分余、計一両九分余を課せられており、この代銀五六匁七分余を夏成・冬成の両度に納めた(天保一〇年「草高免付百姓数品々帳」利賀村公民館蔵)


城村
じようむら

[現在地名]日置川町城

日置川の分流城川の上流に沿う山間集落で、北と西は小川こがわ村、南は太間川たいまがわ(現すさみ町)、東はたに村・矢野口やのくち(現すさみ町)。村中を古座往来が貫通する。慶長検地高目録に「小宗村」とあるのが当村で(続風土記)、同目録によると村高九八石余、小物成二・〇五五石。


城村
じようむら

[現在地名]京ヶ瀬村城

南西は田山たやま村、東はうばはし村。

近世は新発田藩岡方組の十四ヶ村組に属し、寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数九・人数七七とある。

天明二年(一七八二)の岡方組万雑組立帳(倉島肩吾氏蔵)によれば役石は八四石一斗余で、四貫六五〇文の組万雑を負担している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android