詩人、仏文学者。明治25年1月8日東京・本郷に生まれる。慶応義塾大学中退。17歳のおり、吉井勇(よしいいさむ)の短歌「夏のおもひで」に魅了され、新詩社の歌人として出発する。以後、70余年に及ぶ仕事は短歌、詩、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、刊行された著訳書は300点を超える。19歳の夏(1911)、外交官だった父の任地先メキシコに出かけたのを皮切りに、ベルギー、スペイン、ブラジル、ルーマニアと、青春時代の大部分を海外で過ごす。その間に仏文学に親しみ、レミ・ド・グールモン以後の新しい詩精神を身につける。『月光とピエロ』(1919)から『砂の枕(まくら)』(1926)に至る詩集は、硬軟新古のあらゆるスタイルを駆使した自由な日本語で書かれ、訳詩集『月下の一群』(1925)とともに昭和詩に大きな影響を与えた。「泣笑ひしてわがピエロ/秋ぢゃ! 秋ぢゃ! と歌ふなり。//O(オー)の形の口をして/秋ぢゃ! 秋ぢゃ! と歌ふなり」(秋のピエロ)。
大学の詩を特徴づけるものは知性、機知、諧謔(かいぎゃく)、エロティスムといったいっさいの人間的な要素であるが、温かい人間性を基盤とするその詩集は、第5詩集『人間の歌』(1947)において一つの頂点を極めた。晩年になっても詩想は枯れず、『夕の虹(にじ)』(1957)、『月かげの虹』(1971)、『沖に立つ虹』(1974)などの詩集において短詩の妙を発揮した。訳詩家、翻訳家としても優れた業績を残し、『月下の一群』は『詩と詩論』以後の現代詩の源泉となり、ポール・モラン『夜ひらく』の訳書(1924)は横光利一(よこみつりいち)や川端康成(かわばたやすなり)の新感覚派運動の母胎となった。1957年(昭和32)芸術院会員となり、79年文化勲章を受章。昭和56年3月15日没。
[窪田般彌]
『『堀口大学全集』8巻・補巻3(1981~87・小沢書店)』▽『『堀口大学詩集』『堀口大学訳詩集』(1980・思潮社)』
詩人,翻訳家。東京に生まれ,新潟県に育つ。中学卒業と同時に上京,与謝野寛・晶子の新詩社に入って,短歌・詩を作る。慶応義塾大学を中退して,外交官の父九万一(くまいち)の任地メキシコに赴き,以後父に従って南アメリカやヨーロッパの各地を転住,1925年に帰国するまで,途中2度の滞日期間を除き,青年期の十数年間を海外で過ごした。その間,訳詩集《昨日の花》(1918)を手始めに,詩集《月光とピエロ》(1919),《新しき小径》(1922),歌集《パンの笛》(1919)などを次々と刊行,帰国後の25年に出版された《月下の一群》は日本の代表的な名訳詩集の1冊である。大学は,他に《砂の秋》(1926),《人間の歌》(1947)などの詩集で瀟洒(しようしや)な近代的感性と軽妙な機知的発想に基づく都会的な詩風を示す一方,コクトー,ジュネら多数のフランスの詩人・小説家の作品を邦訳し,昭和の文学に大きな刺激を与えた。その翻訳の量と幅広さは他に類を見ない。とくにポール・モランの小説《夜ひらく》の訳出(1924)は,新感覚派出現の契機を作った。
執筆者:小海 永二
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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