大市郷(読み)おおいちごう

日本歴史地名大系 「大市郷」の解説

大市郷
おおいちごう

和名抄」に記載される揖保郡大市おおち郷の郷名を継承したとみられる中世の郷。大津茂おおつも川沿いの現石倉いしくら相野あいのから太子たいし広坂ひろさかにかけての谷に比定され、西は弘山ひろやま庄に接していた(永徳二年八月六日「弘山庄実検絵図写」円尾文書、嘉元四年四月日「鵤庄絵図」法隆寺蔵)。「峯相記」によれば、天徳年中(九五七―九六一)賊徒を従え年貢を押領し、旅人・商人らの通行を妨害するなどしていた揖保郡内の武士を、藤将軍文修が大市の大領大夫らの案内で討伐したという。


大市郷
おおちごう

「和名抄」窪屋くぼや郡大市郷の郷名を継ぐものか。高梁たかはし川左岸の大内おおうちを遺称地とし、一帯に推定される。郷内に守重名があった。文永七年(一二七〇)七月、行実は譲状(三聖寺文書)で、故国清入道跡所領の同名田畠屋敷の上分米を代代寄進状に任せて紀州熊野滝尻たきじり王子権現(現和歌山県西牟婁郡中辺路町)灯油料として、領主得分は備中松尾まつお寺の薬師如来に寄進、所務は門弟弁尊に委ねた。建治元年(一二七五)一〇月二三日の沙門(弁尊か)某寄進状(田中繁三氏文書)には勘返田畠とあり、松尾寺に再寄進している。これらの田畠は一円不輸地で、滝尻権現灯油料は代々の国宣によって進上された。同二年には名内田畠一町余をめぐり、僧弁尊は守護代時綱の濫妨を訴え勝訴している(同年一二月四日「備中国宣」三聖寺文書)


大市郷
おおちごう

「和名抄」諸本に「於布知」の訓がある。現倉敷市大内おおうち川入かわいり付近と推定されている。「三代実録」元慶五年(八八一)一〇月一六日条に備中国窪屋郡の人真髪部成道が大市貞継を殺して罰せられた記事があり、当郷は大市氏の本拠であったと考えられる。同氏の姓は不明だが「新撰姓氏録」左京諸蕃下に大市首の氏名があり、任那国人都怒賀阿羅斯止の後と称しているので、渡来氏族であった可能性もある。


大市郷
おおちごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本は「於保知」、東急本は「於布知」と訓ずる。「播磨国風土記」に邑智おうち里があり、地名応神天皇が同地を訪れた際予想以上に「大内なる」土地であるといったことに由来するという。同書にはこの里に駅家のあることを注記する。


大市郷
おおいちごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに「於保以知」と訓ずる。「三河国古蹟考」「日本地理志料」「大日本地名辞書」ともすべて郷域を不明とする。「碧海郡誌」は、旧上条じようじよう(現安城市)白山社を古来大市社とよんだと記し、「刈谷市誌」では岡崎市の西端、旧坂戸さかと村の郷社酒人さかと神社が式内社であり、近くの上条遺跡が弥生末期より古墳時代後期までの遺物を出土することから、この一帯を大市郷の故地としている。


大市郷
おおいちごう

「和名抄」刊本に「於保以知」と訓ずる。「大和志」は「已廃存箸中村」として現桜井市大字箸中はしなかに比定。同地の大市おおち墓は「日本書紀」崇神天皇一〇年九月条に「倭迹迹姫命(中略)即ち箸に陰を撞きて薨りましぬ乃ち大市に葬りまつる」とみえる、いわゆる箸墓に比定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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