大智寺(読み)だいちじ

日本歴史地名大系 「大智寺」の解説

大智寺
だいちじ

[現在地名]和束町湯船 中山

湯船ゆぶね小杉こすぎ集落背後の山麓にある。山号百丈山、臨済宗永源寺派。本尊文殊菩薩。開山は理有(大観禅師)。「山州名跡志」は当寺建立の経過を大観禅師伝にいうとして次のように記す。

<資料は省略されています>

しかし「京都府地誌」は「貞治二年癸卯十月山名時熙・米山義高之ヲ創建シ僧理有ヲ以テ開基トス」としている。同書は続けて「当時後光厳帝ノ勅願所トナシ、足利義詮寺領二百石ヲ寄付ス、(貞治)五年丙午山名時熙田若干町ヲ寄付ス、前後合テ二百丁トナリ永ク寺領タラシム、後領地ヲ失シ、漸ク衰微ニ帰ス、加之天正中火災ニ罹リ廃絶ス、明暦元年乙未ニ至リ僧妙覚中興シ、稍旧観ニ復ス、今ノ大伽藍是ナリ」と沿革を記す。


大智寺
だいちじ

[現在地名]大分市金池町四丁目

南北に通る江戸時代の日向道を挟んで萬寿まんじゆ寺の南西にある。臨済宗南禅寺派。金貌山と号し、本尊は釈迦如来。大智報恩禅寺ともいう。嘉慶元年(一三八七)大友親著が一寺を建立、萬寿寺住持独芳清曇を開祖として天貌山大慧だいえい寺と号したという。当初海部郡丹生にゆう久所くじよに建立されたとも(「大友松野系図」常楽寺蔵)、のちに同所に移り、二所に大慧寺が所在したが両寺とも荒廃したとも伝える(雉城雑誌)。応安六年(一三七三)二月二〇日清曇を萬寿寺住持に補任した室町将軍家公帖写(豊陽古事談)に「此文今有大智寺」の注記がある。


大智寺
だいちじ

[現在地名]岐阜市山県北野

雲黄山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。北野きたの城主とされる鷲見直重が岐阜瑞龍ずいりよう寺の開祖悟渓に帰依、明応九年(一五〇〇)にその門下の玉浦宗を開山として創建したという。永正七年(一五一〇)に没した直重の墓碑がある。玉浦は同一六年に死ぬが、多くの門人が修行し、塔頭も竜沢りようたく庵・竜栄りようえい院・宝林ほうりん院・広沢こうたく院・曇渓どんけい院・恰雲こううん院・陽徳ようとく庵・梅月ばいげつ庵・待月たいげつ庵・梅泉ばいせん庵・岩松がんしよう庵・三要さんよう庵・幽林ゆうりん庵・法泉ほうせん庵と一四坊に及んだという。


大智寺
だいちじ

[現在地名]坂戸市石井

石井いしい地区の南西にある。南の字元宿もとじゆくは鎌倉街道の宿駅が置かれた地と伝える。龍護山実相院と号し、真言宗智山派。本尊は大日如来。創建の時期は不明だが、開山とされる日教は康応元年(一三八九)頃山城醍醐だいご無量寿むりようじゆ院俊海から法流を相承している(醍醐寺文書)。また五世俊遍は天文五年(一五三六)岩殿正法いわどのしようぼう(現東松山市)栄俊に灌頂を行っている(同年閏正月「日天大事」正法寺文書)。「風土記稿」には当寺付近の小名を勝呂すぐろとし、勝呂氏祖先の居住地というと記しており、当寺も勝呂氏ゆかりの寺と思われる。江戸時代前期、旗本黒川正直(延宝八年没)により再興されたと伝え、正直を中興開基としている。黒川氏の祖先は永禄年間(一五五八―七〇)吹塚ふきつか(現川島町)に入部したといわれ(風土記稿)、当寺と黒川氏のかかわりは戦国期以降となろう。


大智寺
だいちじ

[現在地名]木津町木津 雲村

木津きづ川堤の南にあり西面する。橋柱山と号し、真言律宗。本尊文殊菩薩。古くは橋柱きようちゆう寺と称した。寺伝によれば、天平一二年(七四〇)行基の架けたいずみ橋はのちに壊れたが、弘安年間(一二七八―八八)残った川中の橋柱が時々光を放ち、付近に住む橘次郎大夫守安が奈良西大寺の僧慈心に話したところ、橋柱に文殊菩薩像を刻むことを勧められ、仏師安阿弥を頼み彫刻。その像を本尊とし慈心を開山として一宇を建立、寺号を橋柱寺としたのに始まるという。その後寺は破損し、寛文九年(一六六九)本寂が再興、大智寺と改号。このとき東福門院より本堂の費用若干が下付されたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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