高野山の東部にあり、承和二年(八三五)三月二一日に没した空海の廟を中心に開けた霊域で、大師信仰の聖地。狭義には空海の廟だけをさすが、広義には一の橋(大渡橋)から廟までの墓と御堂を含む地域をさすようになった。
一〇世紀初め、高野山は弘法大師入定留身の地、諸仏集会の霊場であるとの信仰が起こり、それに伴って「ひと度この地を踏めば三悪の境に帰らず、一度この山に詣ずれば必ず三会の暁に遇わむ」と参詣の功徳が唱道された。藤原道長は入定一八八年後の治安三年(一〇二三)一〇月、奥院に参詣し(栄華物語)、自筆の金泥法華経と般若理趣経三〇巻を廟前で供養し、埋納して兜率浄土への往生を祈った(扶桑略記)。万寿三年(一〇二六)には道長の娘上東門院彰子が落飾の後、廟前に納髪した(高野春秋)。これが高野山への納髪納骨の最古の例といわれる。道長の参詣を嚆矢として皇族・貴族の登山が相次ぎ、それに伴って庶民の参詣や納骨信仰も盛んになった。「保元三年記」に「今暁、先妣御骨を高野にわたし奉る。これ納骨の御沙汰なり、一間四面の堂、かの山に御建立、大日如来を供養してこれを安置し、その中に御骨をこめ奉るなり」とあり、また藤原公房は永万元年(一一六五)に出家して勝仙と称し、二条院の御骨を高野山に納めた(尊卑分脈)。このほか有王丸の俊寛の遺骨の納骨(平家物語)、明遍と法然の遺骨の話(法然上人行状画図)、源家三代の納骨(金剛三昧院文書)などが高野納骨信仰を代表するもので、「沙石集」巻二に高野山は「三密修行ノ霊地トシテ、世コゾリテ帰スル故ニ、有縁ノ亡魂ノ遺骨ヲ、彼山ニ納ル事、貴賤ヲイハズ、花夷ヲ論ゼズ、年ニ随テ盛ナリ」とあるように、高野山の納骨信仰は鎌倉時代に全国的に普及した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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