妙安寺(読み)みようあんじ

日本歴史地名大系 「妙安寺」の解説

妙安寺
みようあんじ

[現在地名]前橋市千代田町三丁目

板屋いたや町の西部、たつ町近くにあり、東に大蓮たいれん寺、西側に了覚りようかく寺、境内に隆勝りゆうしよう寺があった。一谷山最頂院と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来親鸞門下二十四輩の第六。貞永元年(一二三二)九条参議中村幸実の創建。もとは下総国猿島さしま一之谷いちのや(現茨城県猿島郡境町)にあった。幸実は讒言により下総国に配流中、常陸国にいた従弟の親鸞に帰依、同元年親鸞は帰京に際し成然の法号を与え、形見として寿像を彫り、精舎を妙安と命名した。そのため妙安寺は古くは成然房・成然寺と称したという。天正一八年(一五九〇)妙安寺は酒井重忠に招かれ川越かわごえ(現埼玉県川越市)に移り、酒井氏の転封に従い前橋へ移る。


妙安寺
みようあんじ

[現在地名]境町一ノ谷

いちの北部に所在。一谷山大法院と号し真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寺の入口に「親鸞聖人二十四輩第六番旧跡地、一の谷妙安寺」の標柱があり、これより山門まで樹木が茂る。山門・鐘楼・水屋・本堂と続き、東側に冠木門・長屋門・庫裏がある。妙安寺略縁起などによると親鸞の遺弟二十四輩第六番、成然房の遺跡。開基成然房は藤原(九条)氏の出で、中村行実(幸実・頼国)といい、建保四年(一二一六)親鸞に帰依し、成然の名を与えられた。


妙安寺
みようあんじ

[現在地名]熱田区新尾頭二丁目

富春山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊観世音菩薩。俗に沢観音さわのかんのんという。住吉すみよし社の南にあり、ほり川の東にあたる。もとは海東かいとう助光すけみつ(現中川区)にあった。文禄年間(一五九二―九六)宗俊が小庵を建てて、師の政秀せいしゆう(現中区)二世雪巌宗(慶長一三年没)を勧請、開山としたが、ほどなく荒廃したので、寛文九年(一六六九)津田正直(橘屋、号富春)が政秀寺六世江天にはかって今の地に移し、山号を富春山と改め(旧号不詳)、延宝五年(一六七七)本堂・山門が完成した。


妙安寺
みようあんじ

[現在地名]岩井市三 桑下

大字の北西部、鵠戸くぐいど沼に臨む台地に所在。一谷山最頂さいちよう院と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。二十四輩の六番。縁起によると推古天皇の勅願により、鎮護国家のため聖徳太子が創立し、三論宗で最頂院葛城かつらぎ寺と称した。のち天台宗に変わり、無住の廃坊となったが、親鸞の弟子成然房円信が天福元年(一二三三)に聖徳太子の霊夢により最頂院を再興せよと勧められ、現久慈郡金砂郷かなさごう村の金砂城主佐竹義康を大施主として再興し、寺号も一谷山妙安寺と改めた。


妙安寺
みようあんじ

[現在地名]佐賀市川原町

辻の堂つじのどうの北にある。曹洞宗の寺院で、山号は泰祐山。本尊は十一面観世音。寺号は竜造寺胤栄(村中竜造寺)の娘秀の前の法名、妙安にちなむ。秀の前は竜造寺隆信の養女となり、上松浦かみまつらで中心的勢力を誇った波多三河守親の妻となったが、波多氏は文禄二年(一五九三)に没落した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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