安芸高田(読み)あきたかた

精選版 日本国語大辞典 「安芸高田」の意味・読み・例文・類語

あきたかた【安芸高田】

広島県中北部の地名。戦国武将毛利元就(もとなり)が本拠とした。平成一六年(二〇〇四)市制。

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デジタル大辞泉 「安芸高田」の意味・読み・例文・類語

あきたかた【安芸高田】

広島県中北部の市。平成16年(2004)に吉田町八千代町美土里みどり町、高宮町甲田こうだ町、向原むかいはら町が合併して成立。戦国期に毛利元就もうりもとなりが本拠とした。人口3.1万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「安芸高田」の意味・わかりやすい解説

安芸高田[市] (あきたかた)

広島県中北部の市。2004年3月甲田(こうだ),高宮(たかみや),美土里(みどり),向原(むかいはら),八千代(やちよ),吉田(よしだ)の6町が合体して成立した。人口3万1487(2010)。

安芸高田市東部の旧町。旧高田郡所属。人口5793(2000)。吉備高原にあり,町の中央部を可愛(えの)川が北流し,川沿いに低地が広がる。中心地の甲立は浅塚川が可愛川に合流する地点にあり,広島から島根県へ通じる交通の要衝にあって古い商家が街村を形成している。野菜や果樹の栽培,畜産が盛んで,二十世紀梨は可愛川右岸の高田原を中心に栽培され,高田梨として出荷されている。浄土真宗の安芸の本山とも称される高林坊や中世に当地を支配した宍戸氏の居城五竜城跡,同氏ゆかりの理窓院がある。可愛川に沿ってJR芸備線,国道54号線が広島市,三次(みよし)市へ通じる。

安芸高田市北東部の旧町。旧高田郡所属。人口4408(2000)。中国山地の脊梁部にあり,北は島根県に接する。北縁を江の川が流れ,支流の長瀬川,生田(いけだ)川が隆起準平原上を東流する。米作のほか,高冷地のため酪農に力を入れており,乳牛の飼育,養鶏が盛んである。6年を費やして開拓された羽佐竹(はさたけ)開拓牧草地がある。山陰・山陽文化の接点となった地で,郷土芸能が多く残る。佐々部を中心に洪積世の地殻変動を示す船佐山内逆断層帯(天)がある。江の川沿いに三江線が通じ,南端に中国自動車道の高田インターチェンジがある。

安芸高田市北西部の旧町。旧高田郡所属。人口3423(2000)。北は島根県に接し,中国山地の積雪寒冷地帯である。可愛川支流の生田川と本村(ほむら)川が東流,両川に沿ってわずかな耕地が開ける。当町域から東に接する旧高宮町にかけて,平安時代末期には長講堂領の吉茂(よししげ)荘が置かれた。文化的に石見,出雲の影響を受けた地域であるが,戦国時代には石見国阿須那(あすな)(現島根県邑智郡邑南町,旧羽須美村)の藤掛城主高橋氏の勢力下にあり,生田に高橋城,横田に松尾城など,支城や出城が配されていた。また石見神楽,出雲神楽の流れをくんだ神楽が伝わり,多くの神楽団がある。米作のほか,野菜,シイタケなどを産し,塩瀬の庭木園は有名。畜産も行われる。神楽のほか,囃子田(はやしだ),花笠踊などの民俗芸能が伝わる。南部を中国自動車道が通じ,旧高宮町との境に高田インターチェンジがある。

安芸高田市南東端の旧町。旧高田郡所属。人口4733(2000)。町域の大部分が山地で,中央部を瀬戸内海に注ぐ太田川の支流三篠(みささ)川が西流し,北部には日本海に注ぐ江の川の支流戸島川が北流,山陽と山陰の分水嶺をなしている。町域南部は平安時代末期には厳島神社領とされており,中世には一帯に毛利氏の勢力が及び,古吹(こぶき)ヶ城(有富氏),日下津(ひげつ)城(坂氏)など毛利氏一族の城もあった。江戸時代,長田には三篠川舟運の港があり,川筋一帯の年貢米や鉄などが広島城下に運ばれた。良質の米を産するが,林業が盛んで造林が推進され,木材,パルプ材を出荷する。JR芸備線によって結ばれる広島市への通勤者も多く,工場の進出もあって都市近郊型農業が行われる。町域南東端,東広島市の旧福富町との境にある鷹ノ巣山(922m)は,北東端の大土山(800m)とともにハイキングコースとして知られる。

安芸高田市南西端の旧町。旧高田郡所属。人口4450(2000)。北部を可愛川が南東に流れ,中央部を北東に流れる簸(ひの)川が東隣の旧吉田町に入って可愛川に合流する。簸川沿いに国道54号線が通じ,町域南部で上根峠(かみねだお)を越える。上根峠は日本海側と瀬戸内海側の分水嶺で,峠の南は根之谷川が曲流して南西に向かう。山間にあって簸川沿いに谷底平野が開ける。米作,野菜栽培,養鶏が行われるが,南に接する広島市への交通の便に恵まれ,工場が進出している。1974年多目的ダムとして可愛川をせき止めた土師(はじ)ダムが完成,八千代湖の湖底に少なからぬ農地,山林が水没したが,湖を中心に土師ダム記念公園,サイクリング施設などができ,観光開発が進む。土師には南北朝期に足利尊氏に属して軍功をたて,土師郷を与えられたという中村氏の居城田屋城があったが,城跡は一部を除き湖に水没した。また可愛川東岸にあった土師大迫(おおさこ)古墳は石室壁面に赤色顔料を塗った,県内に類例のない古墳で,現在はダム記念公園の一角に位置する。

安芸高田市南部の旧町。旧高田郡所属。人口1万1632(2000)。可愛川の中流域に位置し,周囲を山に囲まれる。当町域一帯は平安時代末期に祇園社領吉田荘とされ,領家は花山院家,地頭毛利氏であった。北東流する可愛川に多治比川が合流するあたり,沖積地にある吉田はその中心地で,南北朝期以降毛利氏はここに郡山(こおりやま)城を築いて本拠とし,1591年(天正19)毛利輝元が広島城に移るまで城下町として栄えた。江戸時代は山陰地方と広島城下を結ぶ雲石路の宿場で,可愛川舟運の港もあり,俗に〈吉田千軒〉と称される町であった。可愛川沿いに水田が開け,米作のほか野菜やシイタケ栽培が行われ,工業団地も造成されている。郡山城跡(史)など毛利氏に関わる史跡が多く,毛利元就はじめ一門の墓所もある。臨済宗の大寺で,元就が京より観世太夫を招いて能狂言を催したという興禅寺の跡地は,郡山公園となっている。公園に隣接する清(すが)神社は,素戔嗚(すさのお)尊の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の伝説地で,5月5日の例祭には神輿の渡御があり,だんじり屋台が繰り出して〈吉田の市入り〉として名高いが,江戸時代には当日大規模な牛馬市が催された。北部の多治比には毛利元就が青年期まで在城した猿掛(さるがけ)城跡があり,南部には桂城跡,鈴尾(すずのお)城跡など毛利氏一族や重臣の城跡がある。なお江戸時代後期,眼科医として知られた土生玄碩(はぶげんせき)は当地出身で,郡山公園に碑がある。可愛川に沿って国道54号線が通じている。
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