中国,前近代の身分呼称。唐代では官庁に隷属する官賤民の一種。官賤民中で太常音声人および雑戸の下,官奴婢の上に位置づけられる。司農寺等の官庁に籍があり,年間三番の交代制で1ヵ月ずつ勤務するたてまえであった。官戸中技能をそなえ少府・太常寺に上番するものを工戸・楽戸(工楽)と呼んで特別扱いとした。良民の半額に当たる口分田40畝支給の規定があり,婚姻は同一身分間でのみ認められた。長年勤務すると一段解放されて雑戸となり,また老年になると良民に解放される場合もあった。
宋代以降は官吏やその親属の家を官戸と呼び,普通の庶民と区別することが一般的となった。唐代後半から在地の地主や有力者が行政事務の末端を引き受け重要な役割をになうようになり,形勢戸と呼ばれ官戸と併せて官戸形勢戸あるいは形勢官戸として地域社会における支配勢力となった。その範囲は現任の文武官をはじめ,徴税や官物輸送その他の職役を負担する戸や胥吏(しより)にまで及び,彼らは5段階の戸等制で1,2等の上等戸であった。官戸はだいたい徭役を免除され,両税等の課税についても一定限度内で優免を得る場合がみられた。北宋末の政和年間(1111-17)には限田法を行い,一品100頃(けい)~九品10頃以上の田地を所有する官戸に対して額外所有分に応じて差役と科配を課すこととし,南宋になると官戸の免役の特権を制限する種々の施策がとられた。後の明・清代の郷紳は官戸形勢戸の後身にあたる。
執筆者:池田 温
律令制における五色の賤(陵戸,官戸,家人,官(公)奴婢,私奴婢)の一つ。宮内省被管の官奴司に官奴婢とともに配されて使役された。宮内省または官奴司が名籍を作り管理した。官戸は官奴婢よりは上位の身分であり,戸をなし,一戸全員が駆使されることはなく,官奴婢の年66歳以上および廃疾の者は官戸とされ,さらに官戸は76歳以上になると(反逆縁座は80歳以上)解放されて良民となる。また,官戸は同一身分との婚姻が定められ,謀反・大逆の罪を犯した者の父子で没官され戸をなすことが許された者,私鋳銭の従者などが官戸とされた。官奴婢と同じく,口分田が良民と同額班給され,休仮,服仮,産仮が与えられ,衣粮が給された。720年(養老4)に臨時に官戸11人が良民に,官奴婢10人が官戸にされたことがあるが740年(天平12)の〈浜名郡輸租帳〉では良民の戸を官戸と称しており,賤民としての官戸は8世紀前半のうちに実態がなくなったと思われる。官戸の婦女と官婢の中から女医が採用される規定が医疾令にみえる。
執筆者:石上 英一
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中国で、賤民(せんみん)の一種をさす場合と、官僚の家をさす場合と2通りの意味がある。前者は唐代の官有賤民の一つで、唐代法上で官奴婢(ぬひ)が恩赦により、または60歳に達して官戸とされた。官奴婢が通年労役に服するのに対し、官戸の所属官庁への労働は年に計3回、3か月で、均田法においても、均田農民の2分の1の口分田が支給され、官奴婢よりは一級上の賤民であった。後者は、宋(そう)代で恩蔭(おんいん)(高官の子弟が科挙によらず、親より数等低い官に任ぜられること)や進納(買官)による場合もあったが、その中心は科挙官僚で、数多くの官戸が科挙試を通して絶えず新たに誕生した。科挙は実力主義であったから、官戸は門閥化することはなかった。科挙官僚は、儒学の古典に通じ詩文に巧みな知識人で、士大夫として宋以後の支配階層を構成した。唐末以降の新興地主層を母体として形勢官戸ともよばれ、その多くは荘園を経営した。不輸不入の特権は与えられなかったが、諸種の付加税や地主層に重い負担であった職役(しょくえき)を免除された。地主層は官戸に土地を寄託して役を免れようとし、官戸はこの特権を利用して大土地所有を拡大したため、北宋(ほくそう)末になって限田法が実施され、官品の上下に従って、規定額以上の所有地に対しては免役を認めないことになり、南宋になるとさらに制限は強化された。北宋中期以降、華北にかわって江南出身の官僚が増加し、政権を担当するようになるが、これは江南経済の発展を背景としている。
[柳田節子]
日本古代の律令(りつりょう)制における五色(ごしき)の賤(せん)(陵戸(りょうこ)、官戸、家人(けにん)、公奴婢(くぬひ)、私奴婢(しぬひ))の一つ。宮内省被管の官奴司(かんぬし)に公奴婢とともに配されて使役された。官戸は公奴婢より上位の身分で、戸をなし、一戸全員が駆使されることはなく、公奴婢の年66歳以上および廃疾の者は官戸とされ、さらに官戸は76歳以上になると解放されて良民となる。740年(天平12)の遠江(とおとうみ)国浜名郡輸租帳では良民を官戸と称しており、8世紀前半のうちに賤民としての官戸は実態がなくなった。
[石上英一]
『井上光貞他編『日本思想大系3 律令』(1976・岩波書店)』
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律令制における官有賤民。謀反(むへん)・大逆の犯罪者の父子や私鋳銭の従犯などで没官(もっかん)された者のうち,戸を構えた者が官戸とされた。官奴司(かんぬし)の管理のもと内廷官司で使役され,76歳(反逆縁坐による者は80歳)になると解放され良民に戻された。待遇は官奴婢とほぼ同じで,良民と同額の口分田(くぶんでん)が班給され,休暇・食料・衣服が与えられた。8世紀半ば以降,一般公民の戸も官戸と称される例がみえ,賤民としての官戸の実体はそれ以前に失われたらしい。
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旧中国の戸籍上の区分。官籍ともいう。宋代以降では,官僚を出した家のことをさし,租税以外の職役(徭役(ようえき))を免除されたり,刑法上の優遇措置を与えられた。宋代の官戸は,土地所有にもとづく富農など,在地の有力者の形勢戸(けいせいこ)と重なることが多い。明清代には郷紳(きょうしん)とも呼ばれた。ただし隋唐代までは,官庁の雑務に従事した官有の賤民をさしていた。
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[宋・元]
11世紀前半,北宋中期のある文献では,一つの県で土地を所有している家は3000戸,その約3分の1の1000戸が地主の家であった。読書人として儒教的教養を修得し,科挙試験に応ずるのは多くの場合この地主の子弟であったが,合格して高官となる者を出し,官戸(かんこ),形勢戸(けいせいこ)と呼ばれる家は100戸から200戸,あるいはそれ以上であったという。本来地主の家は社会秩序のかなめとして国家から重視されていたが,同時に地方官府とその財政を支えるための多額の金銭的支出をともなう労役,すなわち徭役(ようえき)を国家から賦課されていた(役法)。…
…奴婢はもともと家内奴隷であったが,政府によっても所有され,官奴婢と称した。その地位は私奴婢とほぼ同じであったが,別に部曲と同様のものもあり,官戸と呼ばれた。ところが,唐代中期から大土地所有制の内容が変化しはじめ,これに対応して部曲身分の解放が行われると,部曲の数は減少し,上級賤民としての部曲という用語は,10世紀末をもって,記録の上からも姿を消した。…
…男性を奴(やつこ),女性を婢(めやつこ)と称する。律令制以前には奴隷的な賤民を一括して奴婢と称したが,大宝令(戸令)では,私有奴婢は私奴婢と家人(けにん)(家族を成し家業を有し売買されない上級賤民)に,官有奴婢は官奴婢(公奴婢とも)と官戸(かんこ)(家人とほぼ同じ身分)に分化した。奴婢は所有者により資財と同じに物として扱われ,相続・贈与や売買・質入れの対象とされた。…
…良賤間の通婚は禁ぜられ,その所生子は原則として賤とされる定めであった(良賤法)。養老令の規定では,賤民に陵戸(りようこ),官戸(かんこ),家人(けにん),官奴婢(ぬひ)(公奴婢),私奴婢の5種があり(五色の賤),それぞれ同一身分内部で婚姻しなければならないという当色婚の制度が定められていたが,このうち陵戸は大宝令では雑戸(ざつこ)の一種としてまだ賤とはされていなかった可能性が強い。雑戸は品部(しなべ)とともに前代の部民(べみん)の一部が律令制下になお再編・存続させられ,それぞれ特定の官司に隷属して特殊な労役に従事させられたもので,そのため身分上は良民でありながら,社会的に一般公民とは異なる卑賤な存在として意識された。…
※「官戸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
東海沖から九州沖の海底に延びる溝状の地形(トラフ)沿いで、巨大地震発生の可能性が相対的に高まった場合に気象庁が発表する。2019年に運用が始まった。想定震源域でマグニチュード(M)6・8以上の地震が...
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