唐の均田法において給田の主体をなす土地。北魏から隋までは露田(樹木の植わっていないはだかの地の意)と呼ばれたが,個人に割り当てられた田土の意味でこの語が普及し,唐の田令では正式呼称となった。一丁男(18歳以上の中男も同じ)に対し80畝(4.4ha),老男や障害男には40畝,寡婦および丁中以外の戸主には30畝が規定額で,田地不足の狭郷では半減される定めであった。しかし実際の給田率は低く,私田を帳簿上口分田に充当するのが一般であった。
執筆者:池田 温
班田収授法において,戸口数に比例して戸を単位として班給される田。輸租田。原則として水田であるが,特定の地域では陸田をも交えた。大宝・養老令の規定では6歳以上の全国民に班給し,死亡によって収公する。その法定面積は男に2段(約2.4a),女にその2/3の1段120歩(約1.6a),奴婢はそれぞれ良民男女の1/3で奴に240歩(約0.8a),婢に160歩(約0.53a)であったが,班給の実例をみると,国ごとにこの法定額を減額した基準授田額を設定して班給した場合が多いと思われる。出生,死亡などによる戸口数の増減に伴う口分田額の調整は,6年ごとにつくられる戸籍に基づいて,同じく6年ごとにめぐりくる班田収授の年に行われた。8世紀半ばから9世紀にかけて口分田の一部は荒廃・再開墾という過程を経て初期荘園の中に吸収され,また9世紀半ば以降,班田収授が励行されなくなると,口分田の多くは名田(名)として再編成されていったらしい。
→班田制
執筆者:虎尾 俊哉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
律令制(りつりょうせい)土地制度の中心となった地目。6歳以上のすべての良民、賤民(せんみん)に班給され、死亡すると収公された。班給額は良民の男子は2段(たん)(約22アール)、女子はその3分の2(1段120歩(ぶ))であり、賤民中の官戸(かんこ)・公奴婢(くぬひ)の口分田は良民男女と同額であったが、家人(けにん)、私奴婢(しぬひ)は良民男女のそれぞれ3分の1であった。輸租田(ゆそでん)で、令の規定によれば1段につき稲2束(そく)2把(わ)の田租を納めることになっていた(慶雲3年=706年の格(きゃく)により1束5把となる)。班田収授は6年に一度行われたが、その班年に死亡者の分を収公し、新規受給者に班給する形をとった。なお、大宝(たいほう)令の収公規定は養老(ようろう)令のそれと異なり、初班者が次の班年以前に死亡した場合に限り、次の次の班年に収公する定めであったらしい。
口分田の田主権は戸主にあったが、その田主権はきわめて制限されたものであった。すなわち、口分田の用益は終身間であり、処分については、1年を限り所在の国司・郡司の許可を得て賃租(ちんそ)(賃貸借による耕作)を行うことが認められるのみで、売買、相続、譲与などは許されなかった。このような田主権の弱さは、班田制施行時においてなお農民の耕地=水田に対する私的土地所有が未成熟であったことに基因している。
中国の均田制においては、口分田(露田)は国家に対し公課を負担する者のみに支給する、という原則が存在したが、日本の口分田にはそのような授田対象と賦課対象の対応はみられない。日本の場合は、女子、子供に対しても給田していることから知られるように、農民の戸の再生産に対する国家の配慮、関与が明瞭(めいりょう)にみられる。これはわが班田収授制の一大特徴といってよい。
[村山光一]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
班田収授の法に従い,戸口数により,戸を単位として班給される田地。輸租田。飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)制下では受給資格に制限はなかったらしいが,大宝令以後,6歳以上という年齢制限が付された。死亡後は班年に国家に返還される。法定面積は男子に2段,女子に1段120歩(家人・私奴婢はそれぞれ3分の1)であったが,現存する戸籍などによると,実際はそれに満たないのがふつうで,国ごとの基準額で実施していたらしい。居宅の近くに班給される原則に対して,郡や国をこえての支給もみられる。また律令法上は有主田で私田とされていたが,のち公田と意識されていった。もっとも班田収授が実施されなくなると事実上私有田となり,初期荘園に吸収されたり,名(みょう)に再編成されたりしていった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…〈やくでん〉ともよむ。大宝令・養老令の田令の規定では,易田を口分田として班給する際には倍給する定めであった。ただし,実際に易田が口分田として班給されたことを示す史料上の初見は,平安時代初期の821年(弘仁12)で,この少し前あたりから特定の地域で,従来の口分田の中の特に劣悪な田を臨時的に易田と認定することが行われたらしい。…
…大化改新によって私地私民を廃止し,公地公民の政策が打ち出され,約半世紀後の大宝律令の施行によって公地公民制が確立したというのが通説である。しかし,すでに中田薫が指摘しているように,律令においては,口分田(くぶんでん)は私田とされていた。口分田を公民に班給する班田収授制は,公地公民制の中心的な施策と考えられてきたが,その口分田が律令においては公田でなく私田とされていたのである。…
…それら諸田と収租の明細は,毎年国司により租帳に記載され,貢調使に付して中央に報告されたが,その際,損田の実状把握とそれに対する租税免除をいかにするかが不堪佃田の処分とともにもっとも重要な問題であった。(1)戸別損田の損免法 賦役令水旱条には,律令田制の基幹である口分田について,戸別の田積を10分とし,損5分以上戸は租,損7分以上戸は租・調,損8分以上戸は租・調・庸・雑徭(課役)をそれぞれ免除(見不輸)とし,国司はその実状を検し,詳細に記録して太政官に上申することが定められている。損4分以下戸は,令条に規定がないが,実際には損分の租を免除(半輸)することが国司の処分にゆだねられていた。…
※「口分田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新