出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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定光寺
じようこうじ
[現在地名]倉吉市和田
国府川北岸の向山南麓にある。金地福山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。建久年中(一一九〇―九九)律院として創建されたが、その後中絶したという。当寺に祀られている源賛・機堂長応の位牌の銘によれば、明徳三年(一三九二)源賛を開基とし、機堂長応を開山として復興されたという。機堂長応は南条貞宗の次男と伝え、越前国慈眼寺(現福井県今庄町)二世。後年伯耆に帰り南条氏の帰依を受けて曹源寺(現三朝町)・定光寺の二寺を開き、応永一七年(一四一〇)正月三日死去した(重続日域洞上諸祖伝)。源賛を南条貞宗とする説があるが、伯州山名代々次第(相国寺光源院文書)などから山名氏之であることが判明する。氏之が法名源賛を名乗るのを遅くとも応永九年以前とし、当寺中興は同年頃とも推定されている(倉吉市史)。
応永二四年九月二二日には伯耆守護山名氏之から八代郷内正時名が寄進され(「山名氏之寄進状」定光寺文書)、同日当寺領正時名・大谷・上神山および小川跡の段銭以下諸公事が停止されている(「山名氏之書下」同文書)。同三一年一〇月二三日には大谷村四分一の替所として久米郡在庁冨成跡が寄せられた(「山名氏之寄進状」同文書)。
定光寺
じようこうじ
[現在地名]瀬戸市定光寺町
応夢山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊地蔵菩薩。平心処斉(覚源禅師)の開創。処斉は滝呂(現岐阜県多治見市)の藤左衛門尉(聖眼房)の案内で水野中郷殿(致国)の館に滞在、致国の帰依を得た(「覚源禅師年譜」永正六年写、当寺蔵)。開創を「定光寺年代記」(永禄頃写か、当寺蔵)は「暦応三年 平心和上定光建立、七堂成就」とするが、「覚源禅師年譜」の「師年齢五十四之時ヨリ御住院アリ(中略)其后、方丈ヲモ造立アツテ御住アリ。
定光寺
じようこうじ
[現在地名]磐田市前野
県道磐田―竜洋線の南、八王子神社西方にある。八王山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。もと真言宗であったが、慶安三年(一六五〇)可睡斎(現袋井市)第一八世華亭豚宗を改宗開山とし、曹洞宗に転じたという(磐田郡誌)。
定光寺
じようこうじ
[現在地名]釧路市米町三丁目
曹洞宗。釧路山と号し、本尊釈迦如来。明治一七年(一八八四)函館高龍寺の渡辺活定が開いた説教所が始まりとされ、同一九年寺号公称(状況報文)。同二〇年堂宇建立、同二一年寺号公称ともいう(寺院沿革誌)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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定光寺
じょうこうじ
愛知県瀬戸市定光寺町にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の寺。開山は覚源(かくげん)禅師で、1340年(暦応3)に一堂を建てて無為殿(むいでん)と称し、ついで庫裡(くり)、方丈(ほうじょう)をつくって、応夢山(おうむさん)と号した。本尊は延命地蔵菩薩(ぼさつ)。初めは建長寺派に属していたが、1649年(慶安2)喝堂全用(かつどうぜんよう)が住持となって中興してから妙心寺派となった。尾張(おわり)藩祖徳川義直(よしなお)の帰依(きえ)を受け寺領を寄進される。山上には遺言によって営まれた義直の廟所(びょうしょ)があり、本堂とともに国の重要文化財に指定されている。寺宝の太刀(たち)2口も国の重要文化財。
[菅沼 晃]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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定光寺〔愛媛県〕
愛媛県越智郡上島町、弓削島にある寺院。鎌倉時代末期の開山と伝わる。1463年に建てられた観音堂は国の重要文化財に指定されている。
定光寺〔愛知県〕
愛知県瀬戸市にある臨済宗妙心寺派の寺院。1336年創建。本堂は国の重要文化財に指定されている。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内の定光寺の言及
【瀬戸[市]】より
…毎年9月には〈せともの祭〉が行われ,市内中央部を流れる瀬戸川両岸に延々と出店が並ぶ。東海自然歩道が走る市内東・北部は愛知高原国定公園に指定されており,尾張藩祖徳川義直の廟所がある定光寺にも訪れる人が多い。名鉄瀬戸線が名古屋市の中心に通じ,住宅地化も進んでいる。…
※「定光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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