宝永地震(読み)ホウエイジシン

デジタル大辞泉 「宝永地震」の意味・読み・例文・類語

ほうえい‐じしん〔‐ヂシン〕【宝永地震】

宝永4年(1707)10月4日に発生した、日本の歴史上最大級の地震の一。マグニチュードは8.6と推測される。遠州灘えんしゅうなだ沖と紀伊半島沖で二つ大地震が同時に発生したとも考えられ、東海道伊勢湾紀伊半島が最も大きな被害を受けた。死者約2万人。家屋倒壊約6万戸、流失約2万戸といわれる。

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改訂新版 世界大百科事典 「宝永地震」の意味・わかりやすい解説

宝永地震 (ほうえいじしん)

1707年(宝永4)10月4日午前10時ころ発生した太平洋沖の巨大地震で,規模はマグニチュード8.4と推定されている。震度Ⅵ以上の地域は静岡県から四国の西端にまで及んだ。震度Ⅵの地域の広がりから,この地震は東海沖および南海沖の二つの巨大地震がほぼ同時に発生したと考えられている。この地震の翌5日の午前8時ころには,甲斐(山梨県)を中心に大きな地震が発生し,甲州や江戸では,この5日の地震の方が強く揺れたという。被害の総計ははっきりしないが,少なくとも死者2万,壊家6万,流失家2万,半壊家1万,破損家4万,船の流出・破損3000,田畑の損30万石を下らないと思われる。この地震による津波は東は房総半島から西は九州に至る太平洋沿岸を襲った。津波の被害はとくに土佐(高知県)で大きく,沿岸では半数以上の浦が亡所あるいは半亡所となった。現在の高知市では約20km2の地が最大約2m沈下し,船で往来したという。また,室戸岬は約1.5m,串本で1.2m,御前崎で約1~2m陸地が隆起した。この地震では太平洋沿岸から離れた地方に大きな被害の出た所があった。たとえば出雲島根県),越前(福井県),信州(長野県)などである。また,道後温泉は145日もの間湧出が止まり,紀伊の湯ノ峰山地竜神,瀬戸鉛山の湯が止まるなど温泉の異常が各地にあった。静岡県を流れる富士川山崩れのために流れが止まった。この地震の約50日後には富士山が大噴火をして宝永火口をつくったが,宝永地震との直接のかかわりはないと思われる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宝永地震」の意味・わかりやすい解説

宝永地震
ほうえいじしん

宝永4(1707)年10月4日に発生した巨大地震。日本最大級の地震の一つで,関東から九州にまで被害が及んだ。震央は北緯 33.2°,東経 135.9°,地震の規模はマグニチュードM)8.4~8.6と推定されている。震害は特に東海道伊勢湾紀伊半島で甚大であった。この地域は震度 6~7のゆれがあり,東海道沿いの袋井は壊滅状態,見附,浜松,鳴海,宮,四日市も半壊状態だった。伊豆半島から九州にいたる太平洋岸と瀬戸内海および八丈島で津波があり,推定される高さは紀伊半島尾鷲付近で 8~10m,伊豆半島西岸から紀伊半島,高知にいたる地域では 3~8m。犠牲者数は 5000人以上で,2万人をこえるという説もある。地盤の隆起沈降が顕著で,室戸,串本,御前崎では 1~2m隆起し,高知の東部では約 20km2が最大 2m沈下した。宝永地震はフィリピン海プレートが南海トラフに沿って西南日本の下に沈み込むため繰り返し発生する海溝型地震の一つ。1854年の安政東海地震と安政南海地震,1944年の東南海地震と 1946年の南海道地震は紀伊半島を境にした東西の領域で時間的に近接して地震が発生したが,宝永地震は東西の震源域が同時に破壊して起こった(→南海地震)。

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