7世紀後半に日本で鋳造された銅銭。和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)に先行する鋳造貨幣と考えられる。円形銭の中央に方形の穴があいた円形方孔銭で、上下に「富」と「夲」の2文字、左右にそれぞれ七曜(しちよう)文を配す。富本銭は、長らく江戸時代につくられた縁起物の絵銭(えせん)の一種と考えられてきたが、1985年(昭和60)に平城京跡から江戸時代の絵銭とは型式の異なる富本銭が出土し、従来絵銭とされてきたものが、古代の富本銭を模鋳したものであることが判明した。さらに1998年(平成10)には、奈良県明日香(あすか)村に所在する飛鳥池遺跡の工房跡から、鋳張(いば)りのついた富本銭や鋳棹(いざお)が多数出土し、富本銭の鋳造場所が特定された。
飛鳥池遺跡から出土した富本銭は、直径2.4センチメートル、重量4.5グラム前後で、初唐期の開元通宝(621年初鋳)の規格に近似し、開元通宝を模倣して鋳造したことがわかる。「富本」の2文字は、後漢の光武帝が、前漢の貨幣であった五銖銭(ごしゅせん)を再発行した際の故事に、「民(国)を富ましむる本は食貨にあり」という文言があることに由来(『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』『晋書』)する。左右の七曜文は、陰陽と五行の調和のとれた状態を示す図象で、円形方孔銭が天円地方を象徴するという中国の伝統的思想に基づくものである。
『日本書紀』には、天武12年(683)に、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という詔(みことのり)があり、7世紀後半に銀銭と銅銭が存在した状況を物語るが、この銅銭が富本銭にあたる可能性が高い。また、この詔にみえる銀銭は、滋賀県崇福寺塔跡(668年創建、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』による)などから出土している無文銀銭と考えられる。無文銀銭は、直径約3センチメートルの銀円板に銀小片を貼付(ちょうふ)するなどして、1両(42グラム)の4分の1にあたる6銖(しゅ)(約10グラム)に重量調整された定量貨幣で、富本銭発行以前に銀地金が貨幣的機能をもって流通していたことを示している。和同開珎と銀の交換比率を明示した養老5年(721)の詔では、和同銀銭4文が銀1両に相当すると規定されており、和同銀銭が無文銀銭の貨幣価値を継承したことがわかる。以上のことから、富本銭も、まじないなどの目的で製作された厭勝銭(ようしょうせん)ではなく、朝廷によって鋳造された実質的な価値をもつ貨幣であったと判断できる。しかし、富本銭に関しては、和同開珎発行時における蓄銭叙位法(ちくせんじょいのほう)(蓄銭叙位令ともいう)などの流通政策がみられないなどの問題もあり、その発行量や流通範囲の究明が今後の課題となっている。
[松村恵司]
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7世紀後半に鋳造された銅銭で,和同開珎(わどうかいちん)に先行する貨幣。直径2.4cm,平均重量4.5gの円形方孔銭で,上下に「富夲」の文字,左右に七曜文(しちようもん)を配す。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で鋳造され,天武12年(683)の詔に登場する銅銭にあたる可能性が高い。大宝律(たいほうりつ)に私鋳銭の罰則規定があること,規格が初唐期の開元通宝(かいげんつうほう)に近似すること,「富夲」の2字が五銖銭(ごしゅせん)再発行の故事に由来することなどから,富本銭は実質的価値をもった貨幣と考えられる。
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(天野幸弘 朝日新聞記者 / 今井邦彦 朝日新聞記者 / 2007年)
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