専光寺(読み)せんこうじ

日本歴史地名大系 「専光寺」の解説

専光寺
せんこうじ

[現在地名]金沢市本町二丁目

金沢の旧市街北西端、JR金沢駅前近くにある。吉藤山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。中世の所在地石川郡大野おおの吉藤よしふじの地名から吉藤専光寺と通称される。貞享二年寺社由緒書上によれば、元応二年(一三二〇)本願寺覚如の弟子志念が石川郡大糠おおぬか創建したと伝え、明応二年(一四九三)五月二六日付で本願寺実如が専光寺玄慶に下付した開基志念絵像が寺蔵される。寺伝に二世志栄は平康頼の子孫といい、家紋にかりがね紋を使用することから専光寺(現加賀市)と同様に、越前大町専修おおまちせんしゆう(現福井市)を中心とする三門徒の流れをくむとの説がある。永享九年(一四三七)九月二五日付で本願寺存如が書写して下付した寺蔵の「三帖和讃」の識語に「加州吉藤専光寺常住也」とあり、この頃すでに吉藤に所在し、寺号を名乗っていたことが知られる。同一一年六月二二日には「持名鈔」と「教化集」、存如在世中に「浄土真要鈔」などの聖教類も下付されているように(「教化集」を除き現存し、県指定文化財)、蓮如以前から加賀における本願寺の有力門末であった。

蓮如が越前吉崎よしさき(現福井県金津町)に留錫しはじめた文明三年(一四七一)九月四日、蓮如より親鸞絵伝を下付されており(現存)、同年親鸞絵伝を下付された木越光徳きごしこうとく寺と並んで加賀門徒の指導的立場にあることを示している。同一四年一二月日の臨川寺領加賀国大野庄年貢算用状(鹿王院文書)によれば、国下行分の中に「専光寺江之代」として米一石、「専光寺江扇子持参之時」として銭三〇〇文が計上されており、大野庄領主臨川りんせん(現京都府右京区)の、庄内の最有力真宗寺院として門徒農民に影響力をもつ専光寺に対する配慮を読みとれる。


専光寺
せんこうじ

[現在地名]織田町上戸

鯖江さばえ街道沿いにある。帰命山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、開基の善覚新田義貞の臣で、俗名恩地正通。暦応元年(一三三八)の義貞戦死後、足羽あすわ河北こぎた(現福井市)に専光寺を創建し、真宗三門徒派本山専照せんしよう(現同市)の一老を務めた。天正一七年(一五八九)座列の争いで専光寺は二寺に分れ、当寺は仏光寺派に転派して丹生にう内郡うちこおり(現福井県朝日町)に移転した。当時の門徒分之帳面(当寺記録帳)によると、「内郡参詣之村々」として上戸うわど平等たいら、内郡・窪中野くぼなかの田中たなか気比庄きひしよ(現朝日町)去和田さるわだ(猿和田)(現同県清水町)小樟ここのぎ(現同県越前町)種池たねいけ村・江守えもり村半分(現福井市)のほか、「河北村参詣之村々」として道口みちぐち浦・大樟おこのぎ(現越前町)小曾原おぞはら(現同県宮崎村)本郷ほんごう足谷あしたに木田きだ町・加津江かづえ(主計)・江守村半分・河北(現福井市)ほかを記す。


専光寺
せんこうじ

[現在地名]加賀市山代温泉

薬王やくおう院の北西、温泉旅館街のなかにある。真宗大谷派で、山号は出雲路山。本尊阿弥陀如来。もと越前国河口かわぐち新郷しんごう(現福井県芦原町)にあったので「新郷専光寺」という。寺伝では、はじめ天台宗で随応山大威徳寺と号したが、斎藤実盛の次男祐真が親鸞に帰依して改宗したという(天保由緒書)。越前で高田・三門徒派を形成した三河和田門徒の系譜を引く寺と思われ、寛正六年(一四六五)の京都大谷本願寺破却にさいして、高田門徒は本願寺派と異なることを比叡山に言上したが、当時越前高田派を代表していたのが風尾勝鬘かざおしようまん(現福井市)と新郷専光寺であった(同年七月日「三塔役者達」専修寺文書)


専光寺
せんこうじ

[現在地名]山陽町大字埴生 正寺

埴生はぶの中央部、正寺しようでらの小高い丘の上にある。浄土真宗本願寺派で竜福山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によれば、創建は不詳だが古くは天台宗竜福りゆうふく寺といい、大持の石山おおもつのいしやまにあって、竜玄りゆうげん寺・八福はちふく寺・花光けこう院などの諸坊があったが、大内氏時代の末期、天文―弘治年間(一五三二―五八)盗賊のために財物を奪われ、越門こえかどに再建。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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