日本歴史地名大系 「小野郷」の解説
小野郷
おのごう
- 京都市:北区
- 小野郷
古代・中世の小野山は、主殿寮領であったが、その確実な初見は久安五年(一一四九)一一月一五日の蔵人所下文案(壬生家文書)である。
小野山はこれ以前その一部が仙洞料とされたようで、時代は下るが文永五年(一二六八)一二月の小野・細川御作手等申状(神護寺文書)に「右謹考案内、当御領山者、元主殿寮領也、而去寛治年中以寮領内、被割進仕所御続松料採所以降、為代々仙洞御領、更無有牢籠」とみえる。すなわち小野山の一部は寛治年中(一〇八七―九四)上皇御所(仙洞)の節器を調進する仕所の「御続松料採所」に割かれ、仙洞料となっていたというのである。
小野郷
おのごう
「和名抄」刊本は「乎乃」と訓ず。「延喜式」に藤原胤子の小野陵の所在を記して、
とあり、また胤子の父高藤の小野墓についても「在山城国宇治郡小野郷」とある。宇治郡の地は既に天智天皇の時代より陵墓の地となっていたが、醍醐天皇が宇治郡出身の女性より生れて以後、
保元元年(一一五六)一〇月三日付山城国小野郷司藤井某注進状(「兵範記」保元二年冬巻裏文書、京都大学所蔵)には、
とみえており、小野郷司と
小野郷
おのごう
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小野郷
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小野郷
おのごう
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小野郷
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出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報