岡田郷
おかだごう
「和名抄」高山寺本・伊勢本は「岡田」と記す。流布本は「崗田」と記し「乎加多」と訓ずる。郷域は重信川の下流左岸の地で、旧伊予郡岡田村、つまり現松前町の西古泉・恵久美・上高柳・大間・昌農内・西高柳・北川原にあたる。
岡田郷
おかだごう
「長禄四年記」八月二四日条に岡田郷とみえ、幕府評定衆摂津之親が代官を勤める京都仁和寺領益頭庄岡田郷住人松長が年貢を緩怠し続けているので、この男を庄内から追出すため家人の置塩尾張守が長禄四年(一四六〇)八月二三日に京都を出発したという。明応七年(一四九八)七月二八日、今川氏親は藁科中務丞に当郷などを宛行っているが(「今川氏親判物写」諸事控覚帳)、この文書は検討の余地がある。その後今川義元は甲斐の武田(穴山)信友に当郷を与えているが、その注記に「近年三条殿所務分」とあり、ある時期に当郷が内大臣正親町三条公兄の知行地となっていた(年未詳六月一九日「今川義元書状写」楓軒文書纂)。
岡田郷
おかだごう
「和名抄」に「岡田」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、本郡柳沢村ニ神祠アリ、岡田明神ト云フ、三段田、柳沢両村ノ鎮守ナリ、主祀ノ者ノ説ニ云フ、モトコノ社ニ古キ祭文アリ、其文ニ岡田郷ニ坐ス、岡田明神云々トアリシト云フ」とあり、比定地は定かでないが、郷域は現那珂湊市柳沢、勝田市三反田・金上・中根・高場・東石川の一帯とされる。
岡田郷
おかだごう
「和名抄」にみえるが訓を欠く。「下総旧事考」は「今本郷村アリ。是ナルベシ」として本郷村(現結城郡八千代町)付近に比定。
岡田郷
おかたごう
「和名抄」に「岡田」と記され、訓を欠く。弘安大田文に佐都東郡のうち「東岡田十五丁 西岡田十丁」とある。
岡田郷
おかだごう
「和名抄」高山寺本は「乎賀多」、刊本は「乎加多」と訓ず。「山城志」は「岡田郷廃、今東福寺門前有岡田地、盖遺名也」とし、中古京師内外地図もこれに従い、また「日本地理志料」もこれに従っている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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