岩倉遣外使節(読み)いわくらけんがいしせつ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岩倉遣外使節」の意味・わかりやすい解説

岩倉遣外使節
いわくらけんがいしせつ

明治4 (1871) 年から2年間にわたって明治政府が欧米諸国に派遣した使節団。右大臣岩倉具視全権大使としたため,この名がある。この使節団派遣の目的は,幕末に締結された不平等条約によって,領事裁判,片務協定税率など,日本が政治的,経済的に少なからぬ国益損失をこうむっていたので,その改正の予備交渉を行うことにあった。この年に派遣されたのは,アメリカとの通商条約を改正しうる期限が,翌同5年に到来するからでもあった。さらにまた明治新政府は,海外諸国の富強をつぶさに視察して国力の発展をはかる政策をも進めなくてはならず,使節団はその使命をも兼ね与えられていた。特派全権大使岩倉のもとに,木戸孝允大久保利通伊藤博文ら新政府の中心人物が副使となり,このほか当時の指導的な官僚らが多く加わった。使節団の総数は 108人に上り,うち 48人が官員で構成され,ほかに留学生として津田梅子ら幼年女子を含む 54人が加わっていた。一行は同4年 11月 12日出発し,12月アメリカに到着,大統領 U.グラント謁見したのち,国務長官 H.フィッシュ条約改正の予備交渉を行なったが成功せず,イギリスおよびフランスに渡って元首に謁見。さらにオランダ,ドイツ,ロシアを歴訪して 1873年9月に帰朝した。不平等条約改正の目的は果せなかったが,政府首脳が海外事情を認識するよい機会となった。特に参議大久保は,殖産興業の必要を痛感し,西郷隆盛ら征韓派と対決するとともに,みずから内務省を設立して卿となり,強力な富国政策を推進した。使節団一行の記録としては,久米邦武編『米欧回覧実記』 (6巻) がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「岩倉遣外使節」の解説

岩倉遣外使節
いわくらけんがいしせつ

明治初年に政府が海外に派遣した大使節団。明治政府は,(1)締盟国表敬訪問,(2)条約改正予備協議,(3)制度文物視察のため,岩倉具視(ともみ)を特命全権大使,木戸孝允(たかよし)・大久保利通(としみち)・伊藤博文・山口尚芳(なおよし)を副使とし,理事官以下計40余人を派遣。同行した留学生ともで約100人。1871年(明治4)12月23日アメリカの船で横浜を出帆。米,英,仏,ベルギー,蘭,独,露,デンマーク,スウェーデン,伊,オーストリア,スイスの12カ国を巡訪,各国元首らに会い近代的諸施設を視察した。アメリカでは条約改正交渉に入ったため,大久保・伊藤が全権委任状をうけに一時帰国したが,交渉は中止。ヨーロッパ各国でも信教の自由と内地開放を要望され,留守政府は禁教の高札を撤去。73年9月13日帰国。使節の在外中に内定した西郷特使朝鮮派遣をめぐり征韓論争・政変を招いた。随行の久米邦武(くにたけ)は「米欧回覧実記」をまとめ,顧問フルベッキの献策による各分野の分担調査の成果は「理事功程」などに報告され,その後の日本の近代化に寄与した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「岩倉遣外使節」の解説

岩倉遣外使節
いわくらけんがいしせつ

明治初期,欧米に派遣された使節団
廃藩置県後の1871年,条約改正の交渉をかね,岩倉具視・大久保利通・木戸孝允 (たかよし) らが欧米を歴訪し文物・制度を視察。条約改正交渉には失敗したが文明開化の必要を痛感し,帰国('73)後国策として打ち出すに至った。国内ではこの留守中に征韓論がおこっている。

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百科事典マイペディア 「岩倉遣外使節」の意味・わかりやすい解説

岩倉遣外使節【いわくらけんがいしせつ】

岩倉使節団

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