川端村(読み)かわばたむら

日本歴史地名大系 「川端村」の解説

川端村
かわばたむら

[現在地名]板野町川端

大寺おおてら村の東にある。北は阿讃あさん山脈を負い、東はひのき(現鳴門市)、南の吉野川(現旧吉野川)南岸は川端新田。同川支流とみたに川が南へ流れる。山麓を東西に撫養むや街道が貫通し、檜村の四国霊場八十八ヵ所第二番札所極楽寺と大寺村の同三番札所金泉こんせん寺を結ぶ遍路道とも重なっていた。天文二一年(一五五二)一一月七日の阿波国念行者修験道法度写(良蔵院文書)に「河端大唐国寺」がみえる。寛文四年(一六六四)までは板東ばんどう郡に属した。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「川はた」とみえる。


川端村
かわばたむら

[現在地名]葛飾区東立石ひがしたていし一―四丁目・東四つ木ひがしよつぎ二丁目・同四丁目

はら村の西に位置し、東は立石村飛地、南は上木下川かみきねがわ村、西は渋江しぶえ村。もとは立石村のうち(風土記稿)。元禄郷帳に村名がみえ、高三九四石余。享保一〇年(一七二五)の村明細帳(葛飾区古文書目録二)によれば検地は元禄一〇年(一六九七)に行われた。反別三八町九反余、うち田三〇町一反余。石盛は上田一三・上畑一二でともに二つ下がり、屋敷の石盛一二。家数四八・人数二一五、馬一五。毎年二月末から五月末まで他領から馬を借りて耕作した。中川は泥川で幅二四間半であったが、宝永二年(一七〇五)御普請で大川になったとある。前年の洪水で亀有かめあり溜井の猿ヶ俣さるがまたの堤が切れた状態が享保一四年小合こあい溜井の設置まで続いた(西方村旧記)


川端村
かわばたむら

[現在地名]柏村桑野木田くわのきだ

北は下中野しもなかの村、東は姥ヶ島うばがしま村、南は桑野木田村、西は田圃を隔てて沖中野おきなかの(現森田村)に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に「河端村」とあり、高は一一六・五一石とある。「柏村郷土史」によれば、村の範囲は下中野村長福ちようふく寺以南から浄円じようえん寺までと、通称広越ひろこしとよばれる現桑野木田北端の柏正八幡宮付近であった。しかし前者は貞享四年(一六八七)の検地による改名で姥ヶ島村となり、後者が川端村となり、その際「河」が「川」と改名された。貞享四年の検地帳によれば、前・後者を含めた村の範囲の数字と思われるが、田畑屋敷合せて六七町七反八畝九歩、村高は六一四・一七七石であった。うち田方は六〇町七反八畝一九歩で五七八・八七四石、上田から下々田まで設定され、上田が一六町三反余、中田二〇町九反余、下田一六町三畝余、下々田七町四反二畝余とあり、畑方は六町九反九畝二〇歩で三五・三〇三石、上畑から下々畑まで設定され、上畑が一町九反余、屋敷地一町三反七畝五歩のうち一畝一五歩は郷蔵屋敷である。


川端村
かわばたむら

[現在地名]朝日村川端

高根たかね右岸にあり、西方を小流桧原ひばら川が流れる。北は猿沢さるさわ村、西は上野うえの村に接し、南は高根川を隔て岩沢いわさわ村に対する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分河はた村 上」とみえ、「本納合 五升八合 縄ノ高合四  家五間」とある。


川端村
かわばたむら

[現在地名]富山市上飯野かみいいの

常願寺川と同川水系広田ひろた用水に挟まれた平地の西寄りに位置する。集落西側を北陸街道(巡見使道)沿いの新庄新しんじようしん町から常願寺川対岸の日置ひおき(現立山町)に至る五百石ごひやつこく往来が通る。集落北側は町新庄まちしんじよう村。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高二四石、免一ツ八歩。寛文四年(一六六四)には水害によって一八石を流失、同一〇年の村御印では草高六石、免二ツ一歩(三箇国高物成帳)


川端村
かわばたむら

[現在地名]伊勢市川端町

宮川下流左岸に沿い、対岸に中島なかじま町がある。「川俣村」とも記される。日付を欠くが鎌倉時代と考えられる清原某田地売券写(光明寺古文書)に「度会郡伊蘇郷野依村所在字河端」と記される。嘉暦二年(一三二七)の僧真隆紛失状案(同文書)にも「字野依前河端五段」の地がみえる。応永三二年(一四二五)八月一〇日の塩浜売券(太田文書)にみえる売主の「馬瀬河ハタ三郎」なる人物は、姓から当地との関連も考えられる。


川端村
かわばたむら

[現在地名]豊田市畝部東うねべひがし町 川端

市域南端部で矢作川に架かる天神橋の西にある。近世を通じて岡崎藩領。阿弥陀院は、もと寺号を福林寺と称し、文和二年(一三五三)勢誉愚底が大樹だいじゆ(現岡崎市)創建のため、当寺の梵鐘をもっていったといわれ、その鐘は今も大樹寺に残る。梵鐘銘には、

<資料は省略されています>

と刻まれている。現在浄土宗に属し、本尊千手観音。なお「上郷町誌」によれば、藤原千寿丸を矢作やはぎ(現岡崎市)の兼高長者の末孫と伝えている。


川端村
かわばたむら

[現在地名]足助町川端

ともえ川右岸へ神越かみこし川が合流するところにある。東は安実京あじきよう村、南は葛沢つづらさわ村・戸中とちゆう村、西はさわどう村、北は籠林かごばやし村・岩神やがみ村に接する。集落は巴川左岸山麓の急傾斜地に点在し、右岸にはない。慶長二〇年(一六一五)旗本鈴木兵左衛門の知行地となり、享保五年(一七二〇)鈴木家の知行が一〇〇石に削られたとき幕府直轄地となる。


川端村
かわばたむら

[現在地名]前橋市川端町

西は関根せきね村、北東は原之郷はらのごう(現勢多郡富士見村)、南は日輪寺にちりんじ村。「郡村誌」によれば、永禄年中(一五五八―七〇)日輪寺村を分村したという。寛文郷帳に田方一五四石八斗余・畑方五九石七斗余とある。明治三年(一八七〇)の村明細帳(川端町有文書)では高二一四石六斗、田方七町八反余・畑方五町八反余、家数は山沢やまさわ川の東に一八、西に一〇で、いずれも本百姓。


川端村
かわばたむら

[現在地名]上越市川端

中島なかじま村の南東、飯田いいだ川右岸に位置。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には「広江又五郎分平岡甚六分村 下」とみえ、本納四三石五斗五升・縄高一六九石六斗六升八合・家一一軒・五四人とある。正保国絵図によると高一八三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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