日本大百科全書(ニッポニカ) 「市舶司」の意味・わかりやすい解説
市舶司
しはくし
中国で海上貿易をつかさどった官庁。その長官を市舶使といい、宋(そう)から明(みん)初まで置かれた。市舶使は唐代の714年に置かれ、押蕃舶使(おうばんはくし)あるいは監舶使と称され、おおむね宦官(かんがん)が任命された。宋代の971年に市舶司を広州に置き、その後、杭州(こうしゅう)(浙江(せっこう)省杭州市)や、日本・高麗(こうらい)への港である明州(浙江省寧波(ニンポー)市)にも置いて知州に兼任させた。元豊(1078~85)の官制改革で提挙市舶司または提挙市舶といわれ、路の財務長官の転運使や副使などに兼ねさせ、ついで泉州(福建省泉州市)にも置いた。北宋末には新法党のときに専官を置き、旧法党のとき旧に復して兼官により運営された。南宋にかけては、出張所の市舶務を置いたこともあった。宋代には西方との陸路貿易が衰え、南海貿易が大いに発展したので国家財政上しだいに重要となり、南宋には広州、泉州2州で200万緡(びん)にも達したほどであった。また国家的税制の色彩も強まり、香薬、珠玉、象牙(ぞうげ)、犀角(さいかく)などは専売とし、その他のものの多くは商人の販売を制限した。中国からは絹、陶磁器などのほか、禁ぜられた銅銭の流出が多く、国内に不足したほどであった。このような関係で、アラブ商人のほか中国の大船や商人も南海に行き、日本にも渡来するようになった。
市舶司の職務は、関税を徴収し、本銭をもって専売品その他を買い上げ、中央への輸送、販売にあたり、中国船に許可証を支給し、帰国の期間を定め、不正を防ぐなどがおもであった。そのため長官の権限は強く、利益も多く、南宋末の泉州市舶の蒲寿庚(ほじゅこう)が海軍を率いて活躍したのは有名である。
[青山定雄]
『桑原隲蔵著『宋代の提挙市舶西域人蒲寿庚の事蹟』(1923・東亜攻究会)』▽『藤田豊八著『東西交渉史の研究 南海篇』(1932・岡書院)』