改訂新版 世界大百科事典 「彫玉」の意味・わかりやすい解説
彫玉 (ちょうぎょく)
陰刻(インタリオintaglio),陽刻(カメオ)の彫技によって装飾を加えられた宝石・貴石を指す。起源は宝石・貴石の帰属を明らかにすべく所有者の目印を刻んだことにあり,前4千年紀後半の南メソポタミアに発すると考えられる。その後,技法の発達に伴い,複雑な形像や文字も表現しうるようになる。凍石(ステアタイト)のような軟石だけでなく貴石などの加工も可能となり,古代西アジア,エジプト,ギリシア,ローマにおいて,工芸美術の水準にまで発達した。彫玉は,材質の美しさ(光沢や光輝)と同時に,硬い材質に彫刻を施す高度な技術が要求され,したがって富と熟練した工人を擁する宮廷文化の中で,印章などの実用的機能と同時に装身具として培われた工芸美術である。
技法とその歴史
凍石,大理石,ラピスラズリ,貝殻の化石など軟石に彫刻を施すには,鑿(のみ)や鏨(たがね)などの金属工具の使用が可能である。一方,メノウ,水晶,トルコ石,ザクロ石,カーネリアンなどの貴石類には回転工具が使われた。回転工具は先端が球形,円盤形,円筒形の金属製で,末端に回転板もしくは弓の弦を巻きつけて先端を回転させた。軟石の場合,工具のみによる彫刻が可能であったが,貴石類にはダイヤモンド粉末と油をまぜて使用した。ただし,古代においてはその入手は困難であったため,クレタ島産の天然研磨剤エメリーや,ナクソス島産のナキシウムが使用された(プリニウス《博物誌》)。回転工具の使用は前2千年紀から確認されており,それによって彫られた形像の末端には小さな球状のくぼみを認めることができる。1cm3にも満たない石の細工にはレンズが必要とされるが,クノッソスに近い墓(前2千年紀前半)から水晶のレンズが出土しており,その使用を例証している。
メソポタミア
彫玉の発祥地であるメソポタミアでは前4千年紀後半から円筒印章が作られた。粘土板に封印を押すのが主たる目的であるため,円筒形の印章表面に陰刻によって動物,神,装飾モティーフなどが刻まれた。シュメール時代になると《ギルガメシュ叙事詩》に関する図像が多くなり,楔形文字を伴う例も多い。この伝統はアッシリア時代さらにアケメネス朝時代にまで継承され,円筒形だけでなく円錐形や半球形の貴石彫玉も現れる。エジプトの彫玉は古王国時代からメソポタミアの影響を受けるが,エジプト固有の彫玉に護符としてのスカラベがある。甲虫を浮彫状に表現するためカメオに近い形状を有する。
ギリシア・ローマ
ギリシア時代に先立つミノス・ミュケナイ時代にも東方およびエジプトの影響で装身具,とくに指輪の彫玉が制作され,とくにクレタ島ではカーネリアンやカルセドニーなどの貴石に動物,狩猟,装飾文が自然主義的な生命力に満ちた形像で陰刻された。前6世紀以降のギリシア・ローマの彫玉は,彫刻や絵画の様式変遷を反映した彫玉が盛んに作られるようになる。とくにヘレニズム時代に入ると経済圏の拡大と宮廷美術の発展により,ジルコン,ザクロ石,トパーズ,アメシスト,カーネリアン,メノウ,水晶などの彫玉を指輪とし,神話や日常生活などの主題や魔除けの図形が精巧に陰刻された。彫玉には制作者の名が刻まれることもあり,その社会的地位の向上を物語っている。前6世紀からギリシアの彫玉はエトルリアにも影響を与えた。ローマでは前2世紀からのギリシア愛好趣味によって彫玉が広まり,とくにアウグストゥス時代の古典古代の彫玉の伝統は,ビザンティン帝国,イスラム諸王朝に継承されたが,中世ヨーロッパに継承されることはなかった。しかし,15世紀にロレンツォ・ディ・メディチが古代彫玉の収集を行い,また古代彫玉技法の復原を行うことにより再興し,18世紀には優れた彫玉も作られた。
→印章 →宝石
執筆者:青柳 正規
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報