室町時代,京都にあった土倉(どそう)の中で,幕府財産の管理や出納に当たっていたもの。鎌倉~南北朝時代の土倉とは,文字どおり土壁を持つ倉庫のことで,動産を預かって米銭を融資する金融業者は〈無尽銭の土倉〉と称されたが,室町時代ごろから単に土倉と言われるようになった。板壁の倉よりは火災や盗難に強い土塗り壁の倉を最初に持ったのは,平安末~鎌倉時代の商人であったと考えられる。財産の有効な保管方法のなかった公家や庶民は,縁故をたよってこれら商人の土倉や,寺社の倉に財物を預託した。保管を依頼する倉は無尽銭土倉に限られるわけではなかったが,保管だけではなく出納まで委任するようになると,預託額以上の借越しや,預託銭の運用・利殖が可能な無尽銭土倉が多用されることになったものと思われる。室町時代の土倉は,このような経緯で,動産質による金融だけでなく,財貨の保管や出納も行う業者であった。
室町幕府の財貨の管理方法をみると,御所に隣接する相国寺には倉があり,籾井氏にこれの管理を行わせていた。一方,京都市中の有力土倉にも財貨の保管や出納を行わせている。彼らは〈御倉〉とか〈公方(くぼう)御倉〉と呼ばれた。幕府に自前の倉がなかったわけではないが,公家や庶民と同様に土倉も利用していたのである。ところで幕府は14世紀末ごろ以来酒屋や土倉を課税の対象としてきた。酒屋は酒壺の数で,土倉は質物の数によって賦課を行い,徴収の実務は納銭方と呼ばれる酒屋あるいは土倉(兼業していることも多い)の有力者が当たった。後には公方御倉であることが納銭方の地位を得る条件とみなされるようになるが,おそらくはまず京都の有力土倉が納銭方として幕府に掌握され,幕府はその土倉を公方御倉として利用していったのであろう。公方御倉として名の知られている者に正実坊,禅住坊,定泉坊などのように法体の者が多いのは,南北朝ごろまで山門(延暦寺)の支配下にあった土倉が幕府の配下に入るようになった,以上のような事情を反映しているものと考えられる。酒屋役,土倉役は幕府に比較的安定して入る,額の大きい収入であった。これの管理出納に当たる者は特に納銭方御倉と呼ばれていた。また幕府には将軍の自家消費用ではない太刀,画軸,扇などの物品が蓄えられていた。諸方よりの献上品と思われるこれらの品は,返礼用として利用されるばかりでなく,仏事などの費用として売却されることもあった。これが代物と呼ばれるもので,これも御倉が管理するものであった。幕府と御倉との交渉は文書で行われる。財物を収めたときは御倉が受取りを発行し,支出を命ずるときは幕府奉行が発行する支払命令書が出された。朝廷の行事に幕府が費用を支出するときは,公家側の担当者がこの支払命令書をもらって直接御倉に赴くこともあった。公方御倉を幕府の一部局とするわけにはいかないが,以上のことから幕府機関に準ずる存在であったとは言いうるであろう。
執筆者:桑山 浩然
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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