徳田村(読み)とくだむら

日本歴史地名大系 「徳田村」の解説

徳田村
とくだむら

[現在地名]藤沢町徳田

砂子田すなごだ村の南東にあり、南東に保呂羽ほろは山・黄金おうごん(四八二・四メートル)がそびえる。中央を徳田川が北西流して盆地を形成、北西が開ける以外は三方を山で囲まれる。天正一一年(一五八三)砂子田城主千田(千葉)重徳と藤沢城主岩淵近江守とが当地で戦い、千田氏が敗れる東山徳田騒動があったという(「千田系図」岩手県史)。同一六年大原山吹おおはらやまぶき(現大東町)城主千葉飛騨守と岩淵近江守の戦い(藤沢の陣)では、当村山口やまぐちで合戦が行われたとされる(葛西真記録)。寛永一九年(一六四二)の徳田村検地帳(県立図書館蔵)によれば、田方五二町四反余・代六一貫二五八文、畑方六九町八反余・代一四貫八三四文(うち屋敷五町六反余・代一貫三七文)、茶畑二四歩・代一六文、名請人数八四。


徳田村
とくだむら

[現在地名]岐南町徳田・徳田西とくだにし石原瀬いしはらせ

薬師寺やくしじ村の西から北にかけてを村域とし、西はさかい川で限られる。村は上徳田・下徳田に分れる。笠松かさまつ(現笠松町)近くに延宝七年(一六七九)まで枝村であった徳田新田(現同上)があり、当村北方下印食しもじき村の間に近代に入って当村に編入される印食新田がある。文禄三年(一五九四)円城寺えんじようじ(現笠松町)野々垣源兵衛は豊臣秀吉から前渡まえど(現各務原市)から徳田に至る野方を預置かれており、江戸幕府からもこれを認められているが(笠松町の→円城寺村、これらの新田はこの野方に開発された。

徳田村古来改帳(正村文書)によると、慶長一四年(一六〇九)石見検地により村高六四〇石・反別四六町三反余に定まり、領主は黒野くろの(現岐阜市)城主加藤左衛門尉であった。元和元年(一六一五)二二〇石余は美濃国奉行岡田善同領、四一九石余は稲葉正成(十七条藩)領となり、稲葉領は同五年尾張藩領に、岡田領は寛永八年(一六三一)幕府領になった(同改帳)


徳田村
とくだむら

[現在地名]神辺町徳田・新徳田しんとくだ

箱田はこだ村の西南に位置し、江戸時代初期には曾根原そねはら村といった。「福山志料」は「水野家ノ時福島引渡帳ニハ曾根原村トアリ、マタ魂原たまはら村ト云、其後今ノ名ニアラタム、明細書ニ村中ノ牛馬育セス百姓困窮ス、乃チ福山両社八幡宮ニテ牛馬繁昌ノ祈祷アリテ、此時ヨリ徳田村トアラタムト云、寛文年中トアリ」と記す。すなわち元和五年(一六一九)の備後国知行帳には「そね原村」がみえ高五八八石余、元禄一三年(一七〇〇)の御検地水帳(広島大学蔵)以降徳田村(反別一〇六町余・高一千五九石余)となる。


徳田村
とくだむら

[現在地名]鈴鹿市徳田町

御薗みその村の東南、なかノ川下流北岸の自然堤防上に立地する。条里制の名残として五ノ坪・六ノ坪の地名がある。建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)に「得田御厨二宮○給主故源中納言家子息、件御厨建立之後、被下奉免 宣下也 供祭物 内宮方上分米五石、外宮方同前」とあり、平安朝以来の伊勢両宮の御厨であった。「神鳳鈔」にも「二宮得田御厨五十丁、五石」とある。


徳田村
とくだむら

[現在地名]志賀町徳田

館開たちひらき村の東にあり、米町こんまち川支流仏木ほとぎり川の上流に位置する。中世の得田とくだ庄・得田保の遺称地で、集落部に地頭得田氏の居館跡と伝える地がある。トクダは天正七年(一五七九)五月二七日の徳田秀章寄進状(竜門寺文書)に初めて「徳田」と記され、「徳田のうちせとのまへあな田」の田地一〇〇刈・年貢四俵が鹿島かしま竜門りゆうもん(現七尾市)に寄進されている。天正一七年「徳田庄之内おと村ひらき仏木村」で検地が行われ(同年六月二日「徳田庄検地打渡状」諸家文書)、同一九年一〇月二六日には「徳田ノ内乙開・仏木・館村」が石黒善九郎の領知となっているが(「前田利家印判状」能登国古文書)、このなかには当村分は含まれていないとみられる。


徳田村
とくだむら

[現在地名]里美村徳田

里川の上流に位置し、東は根小屋ねごや新田。水戸領内棚倉たなぐら街道の最北の宿場であった。文禄三年(一五九四)太閤検地では小妻こづま地区を合せ小里上おざとかみノ村と称し、同四年の小物成目録(秋田県立図書館蔵)に「小里上ノ村」とある。江戸時代初めはあら(荒)まちと称した。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「荒町村」とみえ、「外八拾六石三斗五升 新田」とあり、新田開発が盛んだったことを示す。


徳田村
とくだむら

[現在地名]松山町中牧田なかまきた

中棚なかたな村の北西にあり、東側は丘陵地、西は最上川を境に千河原ちがわら(現東田川郡余目町)。東側の徳田山に縄文中期の集落跡があり、大量の土器や石匙、川漁に用いた大型の大網用おもりなどの石器が出土した。寛永元年庄内高辻帳には徳田興野村とみえ、高五一石余。天保一五年(一八四四)には免四ツ、家数六(「高辻并留」松山町資料館蔵)。最上川に面しているため洪水が多く、享保二年(一七一七)には付荒七二石余となり、残高はわずか二斗であった(松山藩史料)


徳田村
とくだむら

[現在地名]南濃町徳田

西駒野にしこまの村の北西、津屋つや川右岸にあり、北は徳田新田。村内を伊勢東街道が通る。慶長郷帳に村名がみえ、海西かいさい郡に属し高一一九石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では大垣藩領で、田八八石余・畑二九石余、野年貢二石余・川年貢金二両余。元禄郷帳では高三三八石余で同藩領。天保郷帳では高七九三石余とあり、古くは徳田村・徳田新田・釜段かまだん村の三ヵ村であったという注記がある。「新撰美濃志」によれば徳田新田は当村の枝郷で、一色いつしき村とも称したという。釜段村は明暦四年(一六五八)の開発により釜田新田とともに成立した当村枝郷で、元禄一四年(一七〇一)高五六石余とされた(「養老郡志」など)


徳田村
とくだむら

[現在地名]緒方町徳田 米山こめやましん小松迫こまつさこひらかき

下徳田村の南西、東流する徳田川流域にある。同川は東部で北へ向きを変えて流れる。正保郷帳に村名がみえ、田高一五三石余・畑高一九三石余、緒方郷に属し、柴山有と注記される。「豊後国志」には徳田は上下二村とあり、下徳田村に対し上徳田村と称されることもあったものか。旧高旧領取調帳では高二〇六石余。


徳田村
とくだむら

[現在地名]堀之内町徳田

田川たがわ村の北。東は和長島わながしま村、北の魚野うおの川対岸は根小屋ねごや村。かつては対岸の竜光りゆうこう村に属してかみ新田と称したが、水害のため数度の移動があり、慶長一七年(一六一二)竜光村より分離して徳田村と改称したと伝える(堀之内町史)正保国絵図に村名がみえ、高七六石余。天和三年(一六八三)の検地帳(同書)では田一〇町余・畑八町五反余。


徳田村
とくだむら

[現在地名]金城町小国おぐに

小国村の東、小国川中流に位置。東は柚根ゆね村。領主の変遷は乙明おとあけ村と同じ。正保国絵図に村名がみえ、高九〇石余。古高も同高で、寛永一四年(一六三七)の検地高一五三石余。明治四年(一八七一)の総高一六六石余・反別一九町三反余。家数二七(うち本百姓一七)・人数一五二。紙漉船二一、鉄砲一〇、牛二一・馬一一。


徳田村
とくたむら

[現在地名]常盤村福島ふくしま

川の下流左岸に位置し、東は東光寺とうこうじ(現田舎館村)支村の三ッ屋みつや、北は福島村、南は徳下とくげ村に接する。

天和四年(一六八四)の書上帳に家数六とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳に、寛文四年(一六六四)以後の新田として、七七〇・一石とある。貞享四年の検地帳に村高二六二・〇八石、うち田方二三町二反一六歩で二五六・二七三石、畑方九反七畝四歩で五・八〇七石、本百姓一二人、稲荷社と記される。


徳田村
とくだむら

[現在地名]吉備町徳田

吉見よしみ村の北東、蛇行する有田川の南西岸に位置する。慶長検地高目録によれば村高四〇二石余、小物成三斗一升九合。慶長六年(一六〇一)の徳田村御検地帳によれば茶樹三〇六本があり、桑三九束を産した。家数は二九で、うち寺二・川渡し船頭一・おうし後家九(御霊村郷土誌)。安永二年(一七七三)には家数一三八と大幅に増加、うち本役三三、半役四五、無役五四、庄屋一、肝煎一、行力・寺二、太夫一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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