中国,前秦の第3代皇帝。在位357-385年。苻健の弟にあたる苻雄の子。357年(永興1)暴君苻生(苻健の子)を殺して即位,大秦天王を称した。漢族士人王猛(325-375)を信任して,氐族の政権を中国的王朝へ高めることに努めた。明堂を建て,藉田の礼を行い,学校を建設して儒学教育の振興を図り,また魏・晋以来の士族の戸籍を復活した。一方,農業を奨励し,治安の回復に力を入れたので国家はよく治まり,長安と諸州の間には整った並木道が通じ,一定の間隔に駅と亭が置かれた。対外的には,前燕と代国を滅ぼして華北を平定し,前涼を征服して西域の覇権を収めた。しかし,これら内外の成功を基礎に中国再統一の夢を果たすべく敢行した東晋併呑の企図は,淝水(ひすい)の戦で打ち砕かれた。これを契機に,彼が一視同仁の思想で被征服者を遇したその寛大な政策があだとなって旧前燕の慕容垂らが独立を図り,渭水上流では羌(きよう)族の姚萇(ようちよう)が離反した。苻堅は長安を脱出して西方の五将山に逃れたが,姚萇に捕らわれ,姚萇の禅譲の要求を拒んだため殺された。
執筆者:谷川 道雄
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中国、五胡十六国(ごこじゅうろっこく)の前秦(ぜんしん)第3代の君主(在位357~385)。氐(てい)族の人。暴君苻生(ふせい)を殺して大秦天王の位についた。その最大の功績は、370年に前燕(ぜんえん)、376年に前涼(ぜんりょう)と代(だい)を滅ぼして華北統一に成功したことにあるが、また東晋(とうしん)から四川(しせん)を奪い、呂光(りょこう)を派遣して西域(せいいき)を従えた。漢人の名宰相王猛らの補佐を受け、徳治主義を標榜(ひょうぼう)し、国内はよく治まり、五胡諸国中第一の名君と評される。他種族に対しても寛大で、彼らを本拠の関中(かんちゅう)に多く徙(うつ)し、逆に氐族を東方に分置した。しかし、天下統一をかけた東晋(とうしん)遠征で淝水(ひすい)の戦い(383)に敗れると、これら諸族はいっせいに再独立運動をおこし、そのなかで苻堅は羌(きょう)族の姚萇(ようちょう)に捕らえられて殺された。
[窪添慶文]
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338~385(在位357~385)
五胡十六国の前秦の第3代王。漢人の宰相王猛(おうもう)を用いて内政を整え,前燕,前涼などを滅ぼして華北を統一,西域諸国を従えた。東晋の併合をめざして大軍を南下させたが,382年淝水(ひすい)の戦いで大敗し,国内が分裂して最後には自害した。
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…習鑿歯(しゆうさくし)との会見で〈弥天(そらにあまねき)釈道安〉〈四安(天下に聞えし)習鑿歯〉というやりとりは有名である。379年(建元15)前秦の苻堅は襄陽を攻め,道安と習鑿歯を得て長安に帰り,顧問とした。〈10万の師をもって一人半を得た〉という,このときの苻堅の言は古今の名言とされる。…
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