教念寺(読み)きようねんじ

日本歴史地名大系 「教念寺」の解説

教念寺
きようねんじ

[現在地名]川本町本田

荒川南岸、県道富田とみだ―熊谷線の北側に位置する。安養山阿弥陀院と号し、時宗。本尊阿弥陀如来。天平二〇年(七四八)法相宗の僧玄弟子玄等が草創し、のち天台宗に改められた。永仁六年(一二九八)一遍の弟子他阿真教が武蔵を遊行中病気になり、村岡むらおか(現熊谷市)に滞留した時に当時住持であった智観が真教に帰依し、真教を開山と仰ぎ時宗に改宗したと伝える(以上「風土記稿」、「教念寺由緒附」真下家文書)


教念寺
きようねんじ

[現在地名]河内町宇山

宇山うやまの西寄りにある障子嶽しようじがだけ山腹の緩傾斜地にあり、浄土真宗本願寺派。梵行山と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、もと真言宗で、天長年中(八二四―八三四)に空海の弟子某(「芸藩通志」には空海)建立、梵行山華蔵けぞう霊山れいざん坊と称した。天暦(九四七―九五七)の頃しだいに衰え、久安(一一四五―五一)の頃、正親町実透の玄孫天祐(寂天とも)中興


教念寺
きようねんじ

[現在地名]真正町下真桑

大門だいもんに所在する。浄土真宗本願寺派。山号は仙石山、本尊は阿弥陀如来。創立年代不詳。寺伝によれば、開基了道(俗名仙石秀影)の父仙石秀豊は嘉吉二年(一四四二)没と伝え、その数代前の祖が若狭国から真桑まくわ郷に流寓して前若狭守と名乗った。秀豊は土岐氏に仕え真桑郷三千石を領し、十七条じゆうしちじよう城に居城したが晩年軽海かるみ村に隠退したという。秀影は剃髪して屋敷地を堂にしていたが、明応五年(一四九六)本願寺実如の弟子となり、法名了道を受け、阿弥陀絵像・蓮如筆の九字名号を下付され、念仏道場とした。同年閏二月二八日の実如在判裏書に「濃州本巣郡真桑郷地頭願主了道」とある。


教念寺
きようねんじ

[現在地名]福光町山本

円龍山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。永正六年(一五〇九)実円により善徳ぜんとく(現城端善徳寺)の寺基が法林寺ほうりんじから山本やまもとへ移された頃、浄土真宗を信仰した開基教誓が道場を建立したのが始まりとされる。天文年中(一五三二―五五)善徳寺の福光移転後も永正六年に没した実円の廟を守った。


教念寺
きようねんじ

[現在地名]宇部市大字上宇部

上宇部かみうべの台地上にある。浄土真宗本願寺派で松絃山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によれば、開基は大内教弘の家臣兼安伝左衛門専正。文明一〇年(一四七八)本願寺の蓮如に帰依して法名正尊と改め、帰国後一宇を建立して教念寺と称し、延徳二年(一四九〇)没したという。しかし寺伝では、兼安専正と若狭守周信の二人が蓮如の弟子となり、専正は京都で没したが周信が名を正専と改めて庵をつくり、延徳二年に没したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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