日韓会談(読み)にっかんかいだん

  • にっかんかいだん ‥クヮイダン
  • にっかんかいだん〔クワイダン〕

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

第2次世界大戦後の日本大韓民国(韓国)間の国交正常化にいたるまでの一連会談をいう。連合国総司令部 GHQのウィリアム・ジョゼフ・シーボルド外交局長の仲介で,朝鮮戦争中の 1951年10月から善隣関係樹立のための予備交渉を開始した。日韓会談の主要議題は,国交樹立の前提となる対日財産請求権,在日韓国・朝鮮人の処遇,漁業諸問題などであった。予備会談のあと,1952年2月から本会議が始められたが難航し,以後 7次にわたる断続的な交渉の末,1965年6月22日,日韓基本条約締結にこぎつけた。

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百科事典マイペディアの解説

1952年に開始された日本と韓国の基本関係設定のための会談。1961年以後,日韓併合によって消滅していた国交の回復方式,韓国側の請求権,在日韓国人(在日朝鮮人)の法的地位,漁業および李承晩ライン問題などを討議。1965年6月東京で佐藤栄作内閣朴正煕政権は両国内の反対運動を押し切って日韓条約に調印した。
→関連項目大韓民国

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

1951年(昭和26)~1965年まで行われた日本と韓国の会談。世界的な冷戦の始まりのなかで、アメリカが後押しした。日本による朝鮮植民地支配に対する謝罪や補償、国交正常化を目的とした。しかし、日本側が「日本統治下の朝鮮で良いこともした」などと発言したため、しばしば中断した。植民地支配に対する謝罪と補償をあくまでも要求する韓国側と、これを拒否する日本側との溝は最後まで埋まらなかった。その後、外相大平正芳と韓国中央情報部長金鐘泌(キムジョンピル)との間で妥協が成立し、1965年、「日韓基本条約」、「日韓請求権及び経済協力協定」などが締結された。後者は、韓国側が植民地支配下での被害に対する補償の請求権を放棄する代わりに日本側が経済援助をするというもので、韓国国民の反対の声は強かった。また、「在日韓国人の法的地位に関する協定」では、戦前から日本に住んでいる者で、韓国籍をとった者とその子孫に永住権を与え、処遇の改善を図ることが取り決められた。

[高崎宗司]

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精選版 日本国語大辞典の解説

第二次世界大戦後の日本と大韓民国との国交関係を協議するための外交交渉。昭和二六年(一九五一)に開始、同四〇年六月に日韓基本条約および付属協定を調印した。

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