東昌寺(読み)とうしようじ

日本歴史地名大系 「東昌寺」の解説

東昌寺
とうしようじ

[現在地名]仙台市青葉

光明こうみよう寺の西隣。臨済宗東福寺派。無為山と号し、本尊釈迦牟尼仏。脇仏に文殊・普賢両菩薩を安置する。伊達五山の一つで、弘安六年(一二八三)伊達氏四代政依により現福島県伊達だて桑折こおり町に建立されたと伝える。政依は深く仏道に帰依し、桑折に五ヵ寺を開基、東福寺恵雲を開山とした。伊達氏八代宗遠の時米沢に移り、のち藩祖政宗に従い岩出山いわでやま(現玉造郡岩出山町)から現在の地に移った。二代藩主忠宗から寺領三〇〇石を与えられ、一門格に列した(「封内風土記」など)。当寺住職は藩の宿老とともに伊達家の政をつかさどった。慶長一七年(一六一二)塔頭五ヵ院の一風いつぷう軒・雲門うんもん庵・護囲ごい院・知松ちしよう院・乾徳けんとく院を創立したが、維新後廃寺となる。


東昌寺
とうしようじ

[現在地名]逗子市池子二丁目

金沢かねさわ道沿いにある。青竜山と号し、高野山真言宗、本尊大日如来坐像。海照山とも称し、東勝寺とも記した。「相模国三浦郡池子郷真言宗青竜山東勝寺略記」(当寺蔵)によると、鎌倉幕府滅亡時に鎌倉葛西かさいヶ谷東勝寺が焼失した時、住職信海が本尊を奉じて池子いけご郷に逃れ、当寺をつくったとする。しかし葛西ヶ谷東勝寺はいったん廃絶後中興し、元亀四年(一五七三)まで文書にみえるので、寺伝のいうとおりであるか確証はない。天正一九年(一五九一)に「池子郷之内 弐石之事」の朱印状を受けている(相中留恩記略)。「鎌倉志」「三浦古尋録」は本尊不動明王とする。現本尊は元禄一三年(一七〇〇)仏師三橋重信の作である。


東昌寺
とうしようじ

[現在地名]五霞村山王

山王山さんのうやまの中央に所在。六国山と号し曹洞宗。本尊釈迦牟尼仏。もとは山王にあったともいわれる。重層の楼門・本堂・鐘楼・開山堂・地蔵堂・庫裏などがあり、広大な樹林を有する。寺伝によると即菴宗覚が当地で休息していた際に山王大権現の夢告を得、下総関宿城主簗田持助を開基とし、持助の父満助の菩提のために創建したという。簗田氏の帰依を受けて隆盛を極めた。


東昌寺
とうしようじ

[現在地名]十和田市米田 向町

米田山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「東照寺 米田山浅水村宝福寺末寺」とある。開山は三戸さんのへ浅水あさみず(現五戸町)宝福ほうふく寺三世逸尭で、寛文元年(一六六一)四月と伝える。


東昌寺
とうしようじ

[現在地名]上田市大字浦野

上田市大字浦野うらの小字寺山てらやまにある。曹洞宗、万年山と号し、本尊釈迦如来。越前国足羽あすわ郡福井立矢町心月寺末。建長二年(一二五〇)聖一円爾国師の草創と伝える。

初め臨済宗であったが、天文二〇年(一五五一)浦野美濃守友久の開基、本山七世才応総芸を開山とし、再建して曹洞宗となったといわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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