松山藩(伊予国)(読み)まつやまはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松山藩(伊予国)」の意味・わかりやすい解説

松山藩(伊予国)
まつやまはん

伊予国中央部、温泉郡松山(愛媛県松山市)に置かれた藩。1602年(慶長7)加藤嘉明(よしあき)が関ヶ原の戦功によって20万石に加増され、松山平野の中枢勝山(かつやま)に築城、その周辺部に近世城下町を建設し、松山とよんだ。1627年(寛永4)嘉明は会津若松に転じ、かわって蒲生忠知(がもうただちか)が入封するが、7年後無嗣(むし)断絶となり、一時三侯の預り地となる。1635年(寛永12)松平久松(ひさまつ))定行(さだゆき)が15万石の城主に封ぜられ、天守閣の大改造、道後(どうご)温泉浴槽施設および城下町の整備、久万山(くまやま)地区の茶の生産奨励を行った。領域は温泉・風早(かざはや)・久米(くめ)・桑村野間(のま)・浮穴(うきあな)・伊予・周布(しゅふ)・越智(おち)9郡308村に及んだ。4代藩主定直の治世は元禄(げんろく)期(1688~1704)で、彼の好学によって儒教俳諧(はいかい)が勃興(ぼっこう)した。奉行(ぶぎょう)高内親昌(たかないちかまさ)に定免(じょうめん)制、地坪(じならし)制を実施させ、農業の振興策に成功した。1732年(享保17)長雨によりイネが枯死し、またウンカが発生して大飢饉(ききん)となった。翌年藩主定喬(さだたか)は藩の要職を更迭したが、1741年(寛保1)久万山地区の農民大洲(おおず)領に逃散(ちょうさん)する一揆(いっき)が起こり、結果は彼らの勝利となった。寛政(かんせい)(1789~1801)のころ俳人栗田樗堂(ちょどう)(加藤暁台(ぎょうだい)の高弟)が活躍し、彼一派の俳諧黄金時代をつくった。11代定通は厳重な節約、風紀の匡正(きょうせい)を行い、また国産品を奨励し、1828年(文政11)藩学明教館を創設して士風の高揚に努めた。1854年(安政1)かねてから待望の松山城郭の再建工事が完成した。第二次長州征伐に際し、周防(すおう)国(山口県)屋代(やしろ)島を襲撃し、孤軍奮闘したが、敗退。鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いには朝敵の汚名のもとに追討を受け、土佐藩が一時松山を占領した。廃藩置県(1871)により松山県となり、石鐵(せきてつ)県を経て1873年(明治6)愛媛県に統合された。

[景浦 勉]

『久松家編『松山叢談』全4冊(『予陽叢書 第1~第4』1935・同叢書刊行会)』『景浦勉著『松山城史』増補版(1976・伊予史談会)』


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